ボランティアをやる動機について

2013年執筆レポートの一部を抜粋します。
レポートの中で花田えくぼさんの「ボランティア拒否宣言」をいう詩について触れていますので、まずはその詩から。

ボランティア拒否宣言/花田えくぼ
それを言ったらオシマイと言う前に
一体私に何が始まっていたと言うの
何時だってオシマイの向うにしかハジマリは無い
その向う側に私は車椅子を漕(こ)ぎ出すのだ

ボランティアこそ私の敵
私はボランティアの犬達を拒否する
ボランティアの犬達は 私を優しく自滅させる
ボランティアの犬達は 私を巧(たく)みに甘えさせる
ボランティアの犬達は アテにならぬものを頼らせる
ボランティアの犬達は 残された僅(わず)かな筋力を弱らせる
ボランティアの犬達は 私をアクセサリーにして街を歩く
ボランティアの犬達は 車椅子の蔭で出来上っている
ボランティアの犬達は 私をお優しい青年達の結婚式を飾る哀(あわ)れな道具にする
ボランティアの犬達は 私を夏休みの宿題にする
ボランティアの犬達は 彼等の子供達に観察日記を書かせる
ボランティアの犬達は 私の我がままと頑(かたく)なさを確かな権利であると主張させる
ボランティアの犬達は ごう慢と無知をかけがえのない個性であると信じ込ませる
ボランティアの犬達は 非常識と非協調をたくましい行動だと煽(あお)りたてる
ボランティアの犬達は 文化住宅に解放区を作り自立の旗を掲げてたむろする
ボランティアの犬達は 私と社会の間に溝を掘り幻想の中に孤立させる
私はその犬達に尻尾を振った
私は彼らの巧みな優しさに飼い慣らされ
汚い手で顎(あご)をさすられた

私は もう彼等をいい気持ちにさせて上げない
今度その手が伸びてきたら
私は きっとその手に噛(か)みついてやる
ごめんね
私の心のかわいそうな狼
少しの間 私はお前を忘れていた
誇り高い狼の顔で
オシマイの向こう側に
車椅子を漕ぎ出すのだ

以下は私のレポートです。

ボランティア論の授業を受け、自分のボランティア観について変化や感じたことを述べる。

最も印象に残っているのは花田えくぼさんの「ボランティア拒否宣言」という詩だ。

ボランティアをする側は、しばしば「やってあげている」という感覚を抱くことがあると思うが、「誰のためにボランティアをするのか」ということをもっと深く、自分の心を見つめ、常に意識しておくべきだと思った。

ある自死遺族の方の話をネットで見たことがある。その方は6,7年前に息子さんを亡くし、今は東北でボランティア活動に携わっているそうだ。

彼女が言うには、東北でグリーフケアと称してボランティアをしようとする人がいるが、一番喜んでいるのは被災した方ではなく、ケアをする側だと言っている。

多くのボランティアたちが、人の悲しみ、苦しみに付け込んで「ケアしてあげましょう」と言わんばかりに寄ってくるが、人の悲しみを利用して自分たちが喜んでいるのだと彼女は言っていた。

もちろん、全てのボランティアがそうなのではなく、一部だとは思うが、苦しみのさなかにある人はケア提供者の本当の動機がわかってしまうほど、繊細で感性が鋭くなっている。

「ボランティア拒否宣言」の中の『私はもう彼らをいい気持ちにさせてあげない』という部分に特に現れているように感じる。

ボランティアは本来、自主的にやりたいから参加するというものだが、その気持ちを利用して「安く人を使えるから」という目的でボランティアを利用する者もいるということを知った。

アルバイトやパートして雇うと人件費がかかるから、ボランティアとして雇うということがあると知った。また、これとは逆に有償ボランティアといって、少しの賃金ももらう活動の存在も知った。

それぞれに問題点がある。前者は雇う側がボランティアの労働力を搾取している感があることと、後者は活動が目的ではなく、お金が目的で志願してくる者が増えるのではないかということだ。

何のためにボランティアをする必要があるのかということ、小さい活動かもしれないが、使命感みたいなものを持っていないと、嫌な気分になる人が増えるだけではないかと感じた。

自分が「これは社会に絶対に必要だ」と思える活動でないとわざわざ参加したいと思わない。

ボランティアをするといいことは自分の時間を削ることでもある。場合によってはその時間、本来なら仕事に行くべきなのにボランティアに時間を割くと収入もその分減ることになる。

そうまでして参加したいと思う活動でなければ、私なら参加したくない。

「本当はこの時間はデートに行きたかったのに、残念」とか

「この時間にバイトに行っていれば1万円の収入になったのに、なんでボランティアに来たんだろう」と思う位ならしないでおくべきだと思う。

ボランティアをすることで失うものは人それぞれだが、それを上回る喜びを感じる、ボランティア活動に情熱を傾けられるという位でないと、世話になる方にとっても傷つくし、失礼である。

 

2年前に父の実家が台風で被災し、家を取り壊す際にボランティアの方たちにお世話になったらしい。

私も手伝いに行ったが、すでにボランティアの方たちが大半の仕事を終えた後だった。やはり自主的に助けの手を差し伸べてくれることはとてもありがたい。

これがもし、強制されたものだったならボランティアの方たちに申し訳なく思い、私たちも傷付いただろうと思う。

参加したくて参加しているという態度は、受ける側にとっても気持ち良く、純粋に感謝することができる。

これは私が実際に感じていることであるが、やりたいボランティアがあっても、日々の生活に余裕がないとなかなか参加できないということだ。

時間的な余裕、経済的な余裕がないと、家のことが気になってボランティア活動に身が入らないし、日々の生活がひっ迫したものであったらならば次の仕事を探すなどしなければならないのでボランティア活動をする余裕が無くなる。

ボランティア活動を楽しんでできる、充実感を感じながら取り組めるという人は、自分の生活の基盤がしっかりしている場合がほとんどなのではないだろうか。

そうなると、ボランティアに参加するにも、その基礎的な部分でクリアしていないと参加すらできないことになる。

ボランティアが必要な分野というのは、企業が行っていない、きめ細かい所のケア、かゆい所に手が届くというようなケアが多いと思うのだが、活動に参加することのできる人はこの日本に一体どれくらいいるのだろうか。

生活に余裕があっても、活動に興味があるという人ばかりではないし、このご時世、ボランティアに参加できるほど余裕のある人が果たしているのだろうかと感じる。

私自身、ボランティア活動をしたいと思い、研究所に通うことになったのだが、夫の給料は下がり、自分の仕事もリストラに近い状態で2か月間仕事が無い。

そんな中、どうしてもボランティア活動をしたいという気持ちは薄れていく。自分の生活を立て直すことが先であるし、生活が安定し、精神状態が平安でないと私の場合は人のことを考える余裕が無くなってきてしまう。

ボランティアの数が増える状況というのはある意味、景気とも関係があるのかもしれないと感じている。

※この先も文章がありましたがあまり関係のない内容だったので割愛しました。

誰のためにボランティアをするのか。

なんのためにボランティアをするのか。

自分のため。人のため。

一見「人のため」のように見える活動であってもその真の動機が「自分で自分を認めたいから」とか「弱者を助けている自分が好き」などといういわば「ナイチンゲール症候群」や「メサイヤコンプレックス」といった自分の中の闇、痛みをの埋め合わせが目的である場合、相手にもそれを見透かされ結果的に傷つけてしまうことになりかねない。

自分の中の痛みを埋め合わせるために相手を利用する。自分でそれを自覚するのが難しく、知らないうちに相手を人として接しているというより、「もの」として扱っている。しかし外から見た「カタチ」としては本当に純粋な思いでボランティア活動をしている人との区別がしづらく、違いがなかなかわからない。

当事者にとっては「なんかいやな感じ」として感じられるのかもしれない。

この詩の作者のように、「なんかいやな感じ」を通り越して怒りを感じる方もいる。

しかし現場での人手は足りているのかというと、どこも足りていないというのが現状ではないだろうか。

足りていないうえに、上記のような「してやっているのよ」という意識のボランティアがいる。

またそれとは逆に、活動内容によっては「本当は不本意だけど断れずにしぶしぶボランティアをやっている」という人もいるだろう。特にPTA活動などは、半強制的に「順番だから」などと言われてやらざるを得ない状況だったりする。

本当にその活動を心からやりたいという人でメンバーを揃えることができたらいいのだろうけど。

このような場合はボランティアをやる側に余裕のないことがほとんどだと思うし、「仕事が忙しいからという理由で断るのは理由にならない」などと言われるのだ。

この件に関しては別記事で書くことにします。

読んでくださりありがとうございました。