超作とは本山博先生がおっしゃっている言葉です。
本山博先生は2015年にお亡くなりになられましたが、玉光神社の宮司でありヨガの指導者でもある方です。
日本より海外でとても有名な先生ということです。
私も何冊も本を持っておりますが、読んでいると本当に心が癒され、多いに学ばせていただき、また背筋が伸びるような感覚になります。
本物の宗教家のエネルギーはすごいなといつも思います。
さて超作についてですが、超作とはある行為を行う時に、小さな自分を捨てて行為そのものになり切り、その行為によって相手が助かるように、相手を生かすように一生懸命行うことであると。
またその行為によって得られる結果にはとらわれず、どんな結果であろうとも受け止めることであると言われています。これだけ働いたのだからいくら儲かる、自分が得をするということを目的にするのではないのです。結果的にそれは得られるかもしれませんが。
人の話に耳を傾ける仕事であれば、自分の思い込みを脇に置き、ただただ相手の言おうとしていることに全身を耳にするような気持ちで聴く。
相手が少しでも苦しみから解放されるように、気づきや癒しが生まれるように、という気持ちで、相手のありのままを受け止める。
そして相手の持っている価値観の中で、どのようなことがこの人の助けになるのかということを一緒に探す。
自分の関わりによって相手に喜んでもらえたとか、不満を与えたのではないかなどという「自分への評価がどうなったか」「これが出世につながるのかな」などという自分が得するとか損するとかの結果にはとらわれない。
ただただ相手の心に寄り添い、自分が相手にどう思われるかなどといったことにはとらわれず、どんな結果になろうとそれを受け止める。
はじめから「このような結果になってほしい」という相手への期待・結果を求めて話を聴くのではなく、もちろん良くなるようにという結果求をめての行為ですが、結果を目的とするのではなく、ただその場で一緒にいる、愛の心で相手のありのままを受け止めることと理解しています。
なので、何か他のことをしながら聴くのではありませんし、相手の話を聴きながら「早く終わらないかな」「今日の晩御飯何にしようかな」などいう雑念がわくのは超作ではないのですね。
いかに超作が難しいか。
話しを聴くということを例に挙げましたが、日常のあらゆる行為に当てはめることができますね。
料理もそう、掃除もそう。
料理なら料理という行為に一体となり、家族のためにと祈るような気持ちを込めて作る。
そして作ったらそれがおいしいと言ってもらえるかまずいと言われるかという結果にはとらわれない。
苦手なことの超作はやっぱり難しいですね。
どうしても「早く終わらせたいな」と思ってしまいます。
逆にいうと「早く終わらせたいな」というものは自分が超作ができる分野ではないということもいえるのではないかと。
私の場合はやっぱり面談や分かち合いの時は没頭していますし、メール相談の返信の文面を考えている時も時間を忘れて没頭しています。
完璧ではないにしろ、他の事をする時とは明らかな違いがあります。
超作ができているかどうかという判断は難しいけれども、それほど他のことを忘れて打ち込めるものがあるということ自体、とてもありがたいことであり幸せなことであると感じています。
それってちゃんと神様がそういう風に人間一人ひとりを作ってくださっているということ。
超作ができる分野、時間を忘れて没頭できることがあるのは、個人が人生経験を通して得たものであるのと同時に、神様によって与えられたことではないかと。
私の場合逆に家事などは早く終わらせたいと思ってしまいますので、向き不向きがあるのですね。
それでも、苦手なことであっても少しでも「超作」の心で取り組めたら自分も成長できますね。
この本を読むと、自分の嫌いなことであっても気持ちが軽くなります。
「嫌いだ」という自分の感情を大事にしつつ、それでもその行為によって助かる人はいるんだから、一生懸命やろうという気持ちになれます。
「行為のその先」を思い浮かべ、それによって誰かの役に立つんだ、ということに意識を持っていくことで「嫌いだ」という感情から離れることもできます。
本山博先生の「愛と超作」です。
読んでくださりありがとうございました。