悲しみを抱えているからこそ本質を見る目が養われる

2019年3月4日。今の心境。

 

さまざまな悲しみ、苦悩、試練を経て

 

自分の心を見つめる習慣が自然と身に付いた。

 

苦悩の渦中にいた10代から20代のころは

 

好きでそうしていたのではなく、

 

考えたくなくても、ぐるぐるぐるぐると思考が止まらなかった。

 

いやだいやだいやだいやだいやだいやだ。

 

辛い、苦しい、逃げたい。

 

どうして私だけ・・・。

 

何もかもぶち壊したい。

 

いつまでこんな状態が続くのか・・・。

 

どうしたら早くらくになるのか・・・。

 

考えて考えて考えて考えて

 

時には常識では考えられないような「解決策」に頼ったり、

 

突飛な行動をするに至ったこともある。

 

そうしないと生きていけないほどだった。

 

深く心を見つめそのときそのときを精一杯生きてきた。

 

やるべきことが手につかなかったり

 

エネルギーが足らなくて期待するような水準に達せないこともあった。

 

他者からわかってもらえず、怠惰だと思われたこともある。

 

28の時に大きな気づきがあり、

 

人生観が逆転した。

 

その後その大きな気づきの体験が私を根底から支えるものとなった。

 

常に安定した状態でいられるわけではなく、

 

幹はしっかりしているけれど、

 

枝葉の部分が大きく揺れたりもした。

 

28の時から12年経つが、

 

今自分がいかに幸せかということがわかる。

 

あらゆるものに豊かさを感じる感性が養われた。

 

豊かな人間関係に恵まれていると本当に思う。

 

人はひとりひとりがそれぞれとても彩り豊かな存在。

 

以前は、人の中にそのような豊かさを見出すことが難しかったかもしれない。

 

しかし、今はひとりひとりの中の豊かさを

 

感じることができるようになった。

 

私の中に、豊かさを見出せる目が養われた。

 

それは悲しみがもたらしたもの。

 

今まで多くの悲しみ、苦しみ、試練を体験してきたが

 

その都度自分を顧み、

 

ある時は他者のサポートを得ながらここまでやってきた。

 

心を深く掘り下げることがなければ

 

大きな喪失を抱えている人を目の前にしても

 

その大きな悲しみに触れようともせず、

 

その人の心にも触れようとしなかっただろう。

 

興味本位、単なる好奇心から

 

土足で他者の心に入っていくような

 

人を簡単に傷つける人間になっていたかもしれない。

 

以前の自分だったら

 

心の深い部分の話を誰かに聴いてもらおうという発想もなく

 

また他者も私に話を聴いてもらいたい

 

などと思わなかったかもしれない。

 

「この人にだったら打ち明けられる」

 

「この人だから、聴いてほしい」

 

そう思える人がいること。

 

また逆に私も誰かから同じように思ってもらえることが

 

どんなに尊いことなのか。

 

悲しみがもたらした光のようだ。

 

悲しみを抱えて痛がっている心はずっと持ち続けていくものなのかもしれない。

 

それでも、悲しみがあるからこそ、

 

本当の意味で「他者と出会う」ことができるのだと思う。

 

これから生きていく希望になる。

 

根底から私を支えるものになる。

 

そのような出会いを授けてくれた神様・仏様に感謝。