自己受容。自分の限界を限界だと受け止めること

ありのままの自分。

素の自分。

良いところも悪いところもある自分。

時には取り繕ってしまう自分。

全部ひっくるめて「これでいい」と受け入れることができれば

それが本来の自分に近づいた、成長したということかもしれません。

成長というと、なんだか自分の悪いところを直して別の資質を身に着けてみたいなイメージですが、

素の自分に戻ることが成長なのではないかと思います。

生死をさまよったさい、身体が回復してから臨死体験とよく似た宗教的体験をしました。

途中までは宗教的な気づきや宇宙の法則、この世の法則みたいな智慧が

あふれ出てくるような感じでしたが、

徐々に意識が遠のきトランス状態で口が勝手にしゃべりだしました。

半分記憶が飛んでしまっていますが、

「もう少しで覚醒する」「すべてが明らかになる」「宇宙と一体化する」

という感覚がありました。

あともうちょっとのところで、闇のような邪魔が入り、

自分が無意識に抱えていた罪悪感や自責の念、死の恐怖が襲い掛かり

そのまま鎮静剤を打たれて次の日は副作用でさんざんでした。

(ある種の薬は次元を超えた変な存在を呼び寄せると今は思っていますがこのことはまた別の機会に。)

当時は特に信仰心があったわけではなく、自己受容ができていなかったので

そのまま覚醒というか自我を超えるには至らなかったのでしょう。

死もある意味「自己受容した」「解脱の心境に至った」人であれば安らかに逝けるのでしょうし、

そうならなかった場合は肉体が死んでからそのプロセスが始まるのかもしれませんね。

私の場合、実際に死に直面している時は意識がありませんでしたが、

回復してから時間差でこのような体験をしています。

表面の意識上ではわからないことですが、もっと深いたましいの次元で

自己受容できていたらもしかしたら死んでいたのかもしれません。

自己受容できていなかったから生還できたのかもしれませんし、生きたいと思う強い意志がたましいレベルであったのかも。

罪悪感、自責の念を感じたことの一つに夏にゴキブリを殺したという出来事ことがあります。

普段はこのような罪の意識を感じることはありませんが、

この時の罪悪感はそれはそれはものすごく強いものでした。

ゴキブリを殺したから地獄に落ちるのだという絶望も感じました。

「どんな小さな生き物であれいのちあるものを殺してはいけない・・・」

どうしてこの時ここまで深い罪悪感を感じたのか、疑問に思っていました。

虫を殺すのは確かにいのちを殺すということだからダメかもしれんけど、地獄に落ちるほど悪いことなのか・・・?

最近になって気が付きました。

「虫を殺してしまう自分をダメだと思っていた」んですね。

そんな自分は罰を受けて当然。

いくら小さいからといっていのちを大切にしない自分はダメな存在。

つまり、そんな自分を自己受容できていなかった。

蝶とかカナブンだったら捕まえて逃がすでしょうが、ゴキブリやムカデは殺します。

そんな自分だから「×」印をつけていた。

でもそういう自分でもいいのです。

「害虫」というのも人間側の勝手な都合で決められたことで、

虫に対して本当に申し訳ないことでしょう。

しかし、「虫は気持ち悪い。ましてや害虫なんて。」とどうしても思ってしまう「心の限界」があります。

人によっては殺さずにそっと捕まえて窓の外に解き放つという方もいるかもしれませんが、

私は害虫が出てきたら殺しますし(家族の誰かに頼むのだけれども)、

それ以外できないというのが今の私の限界。

限界はみな持っていますし、それを越えなければならないと思うこと、

それを超えられない自分はダメな存在なんだと思うことが

自分を受け入れることを妨げています。

「欠点や限界はあってはダメ」と。

こう思うことこそ、逆に傲慢なのかもしれません。

人間ですから限界はあって当たり前。

こうしたいああしたいと思っても、心が付いていかなかったり、行動できないことはあります。

最善を尽くしたつもりでも、うまくいかない時もあります。

ある内容の話は聴けても、別の内容の話は辛すぎて聴けない、などケアする側も自分の限界について知り、無理しないことが大切だと言われています。

限界のある自分を認めることも自己受容なのだと気が付きました。