グリーフケア。喪失の悲しみだけじゃない。「誰もわかってくれない」孤独

グリーフケア。喪失。孤独。

グリーフケア。死別の悲しみを打ち明けるという人はごく一部

遺族会や分かち合いの会では大切な人を亡くしてどうしていいかわからない、毎日が辛くて寂しくてどうしようもないといった悲しみを抱えた人たちが集まります。

このような集まりに参加する方は「誰かに話したり、他の人の話を聴くことでちょっとでもらくになる、支えになる」とおっしゃいます。

参加者の中にももちろん「誰にもわかってもらえない」という苦しみを抱えている人が多く、特に家族や友人、同僚などには話しづらいという方も多いです。

普段、亡くなった人のことを話す機会はほとんどないかもしれませんが、遺族会に来て話すのです。

遺族会に参加するという行為だけでもエネルギーのいることですし、、最初の一歩はとても勇気のいることだと思います。

大体月に1回の開催という遺族会が多いですが、その月に1回の集まりに参加するために、家事や仕事の調整をし、小さなお子さんやお孫さんのいる方は子守りの手配なども準備し、参加されます

遺族会に参加してくるということを家族に告げてこられる方、遺族会ということを伏せて来られる方、さまざまです。

遺族会に参加しているということは「この方は大切な方と死別したのだ」「大きな悲しみを抱えているのが」という喪失が第三者から見える状態でもあります。

喪失が外から見えない人もいる

生きていると人は誰でも死別を体験します。

悲嘆の状態、グリーフの状態を体験するのは自然で当たりまえのことです。

多くの場合は悲しみと折り合いをつけながら、どうにか日常生活に戻っていかれますが、中にはなかなか悲しみが収まらなかなかずに苦しいという方もおられます。

死別を体験しても多くの人は、回復するのか、納得していて心残りがないのか、悲しみに蓋をしてみないようにするのか、ということはわかりませんが、「グリーフケア」を必要としているのはだいたい1割程度と学んだ記憶があります。

グリーフケアを必要としているというのは、悲嘆に陥って日常生活にも大きな影響が出ている状態です。

その必要としている中から、何割かの人が遺族会に来られたり、苦しくてたまらないと心療内科に通われたりと、何等かのサポートを受けていいます。

しかし、それ以外の人はそのようなサポートが存在していることも知らず、あるいは知っていても頼る気になれないのかもしれませんが、一人でどうにか耐えているという場合が多々あるのではないかと思います。

そのような人は外に出られず、ずっと閉じこもっているかもしれませんし、外に出たとしても自身の抱えているものを誰かに打ち明けようなどとしないでしょうから、心の奥ではサポートを必要としていたとしても、どうすることもできません。

遺族会に来られるのはごく一部の人たちであり、一人でずっと苦しんでいる人はいっぱいいるかと思います。

孤独。心の内を聴いてほしい、悲しんでいいという発想すらないのかもしれない

これは私自身の体験からですが、辛いことを抱えていてもその話を人に打ち明けていいと思えない、また辛いことを辛いと感じていいとも思えないということもあります。

育った家庭環境の影響もあるかもしれません。別のことが影響しているのかもしれません。

辛いことも嬉しいことも何でも聴いてくれる、受けとめてもらえる環境に恵まれていれば、誰かに悩みを打ち明けたり、話を聴いてもらうということが自然なことと捉えられるでしょう。

しかし、普段から話をしても否定されたり、気持ちに寄り添うのではなく、「もっとこう考えたほうが良い」などと言うアドバイスをされたりということが続くと、誰かに話そうという気持ちが無くなってきます

話したとしても「情報」「内容」のみであり、その場で自分の気持ちをありありと感じながら、泣きながら話すなどということはできなくなります。

自分の話を聴いてもらいたくても、いつのまにか親や先生の「持論」を聞かされて、逆に「聴き役」になってしまうことも多いです。

話を聴いてほしくても、聴く相手に合わせた話を無意識にしてしまう。淡々と話すことが普通になってしまったり。

そうすると感情を出すこと自体がダメなことにように思えてきます

泣きたくても我慢し、怒りたくても「もしかすると自分にも非があったのでは」などと自分の心をごまかすようになります。

辛い、苦しい、悲しい、腹が立つ、悔しい、このような感情が沸き上がったとしても「もっと良い側面をみるべき」「もっと辛い人がいるから我慢しなくては」「辛いのは私だけじゃない」という頭の考えに感情が乗っ取られ、「無かったこと」として葬り去られます

そのように自分の心をごまかすうちに、だんだんと何を感じているのか、自分の感情すらわからなくなってきます

感情を感じていないわけではなく、心がそれを「感情として」キャッチしづらくなるために、身体や精神の症状となって現れたり、対人関係でのトラブルやおかしな行動(反社会的な行動など)となって表面化します。

テレビでよく「ゴミ屋敷問題」が取り上げられますが、芸能人などが住人によくよく話を聴いてみると、その多くが大切な家族と死別し、深い悲しみをどうすることもできずにいるうちに、物を集めてくる、捨てられないという状態に陥り、あのようなゴミ屋敷状態になっているようです。

このような場合も「孤独」という痛みがベースにあり、なんらかのきっかけで負のスパイラルに陥るということでしょう。

人に打ち明けるという発想に乏しいため、当然病院に行ったり、遺族会や電話相談といった行動も取りません。

誰もわかってくれないだろうという諦め

自分の心の痛みを「大した事ない」と「過小評価」する癖がついていると、誰かにそれを伝える際にも淡々と事実を述べるような表現をするようになります。

無意識に平気なそぶりをしてしまうというのはよくあることではないでしょうか。

自分でも「平気」と思っていることも多いかと思います。

また心の奥底では「どうせ誰も分かってくれない」という他者に対しての諦め、失望という念も持っていることでしょう。

今まで生きてきた中で、誰も心に共感してくれなかったという痛みが、今度は自分が他者に対して心を開けなくなった、自分に対しても心を感じられなくなったということにつながります

誰も私のことをわかってくれない、というのは同時に

誰にもわかってほしくない

誰にもわかるはずがない

という自分の閉じた心の叫びでもあります。

誰とも心を通わさず、ただ生きている・・・死んでないだけ。

死別の苦しみも辛いですが、同等か場合によってはそれ以上に「孤独」という苦しみも深いように思います。

 

本やネットで誰かが自分の言いたいことを言っていないか探すのもあり

「孤独」に陥った人にどう声を届けるかということはとても難しいです。

自らが拒否している部分もあり、また自身の痛みにすら自覚がない場合もあるでしょう。

他者との連絡を絶つ、電話線を抜く、家に引きこもるなど、外からは気づきようがない状態の人もいるかと思います。

グリーフワークというのは本当にその人のタイミングで行うことが重要になります。

外に出たくないという場合でも、心をらくにする方法はいくつかあって、そのうちの一つが誰かほかの人の体験談を読むという方法です。

複数の人の体験談を読むうちに、自分と似たような気持ちを吐露している文章に出会うかと思います。

「自分の言いたいことを言ってくれている。」これが大事です。

言っているのは他人かもしれませんが、「そうそう、その通り」「ああ、わかってもらえた。」という感情を体験談を読んだ自分も抱くのです。

そのような文章に触れたとき、感情が揺れ、癒しが起こります。

何度も何度も繰り返すうちに心がらくになっていきます。

もちろん、他者の体験談なので時には聞きたくない内容や共感できない気持ちにも触れることになるでしょうが、これは遺族会に参加しても同じです。

差異を感じて苦しくなることもあるでしょう。共感を感じて気づきや癒しにつながることもあります。

もちろん、完全ではありません。メリットデメリットは何にでもありますが、外に出られない場合は誰かの体験談を読むのはお勧めです。

※読むエネルギーがない、余計にしんどくなりそうという場合は読まないほうがいいです。

他、似たような方法では「歌」です。短くシンプルな歌詞にメロディがついているだけでなぜこんなにも心が動くのかというくらい「歌」の作用はすごいです。

自分の言いたいことを言ってくれていると何度も聴いてしまうので、「音楽療法」にも大きな可能性を感じます。

癒しが進むと自然と心も開いていく

最初は

「誰にもわかってもらえないだろう」

「これくらいのことは平気」

という風に自分でも思っているかもしれませんし、悲しみが深いという実感もないかもしれません。

自分の心と向き合うのはしんどい作業ですが、徐々に気づきや癒しが起こります。

癒されていく過程で「悲しみそのものは無くならない」ということも、実体験として学ぶでしょう。

そして学びや気づき、癒しが進むにつれ、自分の心が他者に向かって開かれていきます。

孤独に陥る時期があっても徐々に外に出られるようになり、人と話す際は淡々としか話が出来なかったとしても、一人、二人と気持ちを分かち合える人が増えてきます。

最後に

どんなに孤独に陥っていたとしても、必ず助けになってくれる人、人がダメなら助けになってくれる物は近くにあります。

本に書いてある言葉、テレビから聴こえる声がメッセージとなっているかもしれません。

それが誰なのか、何なのかは人によって違うでしょうが、人間が生きているということは、その人を根底から支える存在があるから生きているということでもあります。

本当にしんどい時はその存在に気が付く余裕がないでしょうが、その辛い時にこそ、自分を支えてくれる不思議な力、不思議な存在が近くまで来ています。

人は誰でも一人残らず支えられている。

それに気が付くのはずっと後、辛い時期のことを振り返って初めてわかるのかもしれません。

これは、私が死という人生最大とも呼べる危機を体験し、それまでの半生を振り返り、存在の深みでつかんだことです。

読んでくださりありがとうございます。

あなたの幸せと平安をお祈りします。