セッションを受けて「傷つくこと」について

本日、「オーラ鑑定資格認定講座」なるものを受けまして、波動の揺さぶりの影響か「冴えた」ので結構長文です。

「冴えた」といっても私のポテンシャルで「冴えた」ということですので、文章自体はつたないです。

ケアを受ける側は「傷つかずにらくになりたい」と思っている

遺族会でのグリーフケアや、セルフセルプグループなどではファシリテーターをするスタッフと、複数の参加者がグループワークという形でセッションを進めていきます。

セッションという表現は専門色が強いですが、語り合い、分かち合い、お話会と表現するとイメージしやすいでしょうか。

1対1ではなく、複数で共通した苦しみについて語り合います。

普通は参加者同士が傷つけあうことを避けるため、ルールを設けているところがほとんどです。

例えば

  • 個人情報を外に漏らさない
  • 他の人の話を否定せずに聴く
  • 一人があまりに長い時間話すと他の人が話せなくなるので、止めることがある
  • アドバイスはなるべくしない。するときは一言断ってから
  • 宗教・政治・営利活動は禁止
  • 会が終わってからの参加者同士の交流は自由だが、トラブルになることもあるので注意すること

など会によっても異なりますが、大体こんな感じでルールを作っているところが多いかと思います。

参加者は他の人の話を聴いて自分のことと重ね合わせ、気づきを得ることもあれば、そこから自分の痛みに触れ、一時t系にしんどくなり悲しみや苦しみがより一層色濃く感じられることもあります。

そのような場に参加することで、一人ではないという孤独感が和らいだり、他の人の存在が励みになる、わかってくれる人がいて見守ってもらえているという安心感を得ることができます。

一方で自身の心を見つめることになるので、決して「癒されてハッピー」というおめでたい状態でいられるわけではなく、しんどい作業を複数の仲間とやっていくことになります。

大切な人との死別であれば、今抱えているその死別がしんどい、どうしていいかわからない。

ご家族を病気で亡くされた、交通事故で亡くされた、闘病期間は〇〇年だった、急に亡くなった。

状況は一人ひとり異なりますが

「あなたはまだマシ」とか「あなたの方が辛い。私はまだマシ」と状況を比べてしまうことで他者を傷つけたり、自分が傷ついたりしてしまいます。

「あなたはまだマシ」というのは「私の方がもっと辛い」という相手への攻撃に聞こえることがありますし、その心の奥には「私のことをもっとわかってほしい。気持ちを受け止めてほしい」というメッセージも抱えているかもしれません。

「あなた(あの人)の方が辛い。私のほうがまだマシ」というのは、自分の痛みを過小評価しているように感じます。「私の状況は他の人に比べたららくなんだから、もっと我慢しないといけない。弱音を吐いてはいけない。」と。本当は「誰かを頼りたい。助けてほしい。」そんなメッセージが隠れているようにも思えます。

太字でハイライトした部分が本当の心の声だとすると、それをそのまま発言すれば誰も傷つかないのです

私は〇〇したい。したくない。」

私は〇〇と感じる」

「あなたは~」と相手のことを指摘すると相手を傷つける場合があります。

また「私は~」という言葉でも「私は〇〇するべき」と考えると自分を縛ってしまったり、自分を傷つける場合もあります。

しかし、参加者は専門家でない限りそんな知識はありません。会話の中で「あなた〇〇ね~。」と発言するのはごくごく自然なことでもあります。

相手を攻撃したというつもりはなくても、知らずに傷つけてしまうことがあるのです。

 

傷つくという現象。相手がいる場合

普通、傷つくというのは相手の言動によって「攻撃された」と感じ、傷つきます。

その「攻撃」された部分というのは元々持っていた傷がある場合がほとんどです。

一瞬傷ついたように思えても、一晩寝れば忘れられるというのであれば単なる一時的な「怒り」「悔しさ」を感じるだけで後に残りませんので、傷ついたというより、「一瞬感情が乱れた」と捉えればいいでしょう。

相手の言動によって、その後もしばらくは心が動揺する場合ですが、これは現象としては「相手に傷つけられた」「攻撃された」と同時に「元々あった自分の傷があぶりだされた」とも考えられます。

3次元での見方では、原因は相手の言動、結果は自分が傷ついた、となります。

しかし見方を変えると原因は元々あった心の傷、結果は相手がそれに揺さぶりをかけてあぶりだした。

ということもできます。

本人が自覚している、自覚していないに関わらず、傷つく体験というのは心の奥深くにその種があってそれが揺さぶられるからです。

なぜ揺さぶられるのかというと、たましいレベルで「癒してほしいから」「本来の自分に戻りたいから」ということになります。

「癒してほしい部分」はどうやったら癒されるのか、見つけてもらえるのか。

どこに傷があるのかがわからない場合、「ここがあなたの傷ですよー」と気付かせてくれるのが傷つき体験ともいえるのです。

傷つかないとそこに傷があるとわからない。

だから傷つく。

卵が先か鶏が先かの話になってきますね。

元々自分の心に傷を持っていて、それを見つけて癒してほしいとたましいの部分では思っている。

個人でそれをすることが難しい場合、「傷つける他者」が代わりにその役をやっているという仕組みです。

(※表現が難しいですね。傷ついてそれを我慢することを勧めているのではありません。むしろそこから自分の心の深く、本当はどう感じているのかという、今まで言いたいけど言えなかった本音に入っていくことで癒しにつながります。)

しかし多くの場合、そこで傷ついたまま放っておくから、その傷はずっと癒されずに何年も何年も、ケアされないままでいるのです。

傷があぶりだされたということは、「今それを癒してほしい」ということでもあります。

傷つくという現象は避けられない場合がある

ということで、私たちはできるだけ傷つけることなく、セッションを進めようと全力を尽くしたとしても、傷つくというのは「その部分を癒してほしい」というたましいの叫びが現れたものだという見方もできるので、ある意味避けられないともいえるでしょう。

そうはいっても参加者は「傷つきたくない。」という思いを持っていますから、当然その「傷つきたくない」思いを大切にして、寄り添い、できるだけ傷つけないように関わっていくことが大事だと思います。

元々持っている傷と、セッションに来ている理由(死別だったり、生きづらさだったり)はどこかでリンクしていることでしょうが、参加者は

  • 「傷つくことなく」
  • 「死別の悲嘆を話したい」
  • 「生きづらさを分かち合いたい」

という思いを抱えているでしょうから、その願いに寄り添うということです。

しかし全力を尽くしたとしても、傷ついてしまうことはあり、その時こそ逃げないで向き合うことが必要とされているように思います。

相手がいない場合の傷つきは心の揺さぶり現象

相手がいないのでそもそも「傷つく」とは言わないのですが、自分を見つめる作業をすると過去に受けた心の傷が再浮上してきます。

捉え方によっては「もう一回傷つく」ということになります。

相手がいるかいないかの違いだけで、結局取り組み自体は同じということになります。

カウンセリングセッションを受けたり、瞑想をしたり内省をしたり、ほかヒーリングのトレーニングを受けると波動によって心(たましいレベル)が揺さぶられるため、自然と過去の傷が浮上し、強制的に自己内省するモードへと突入ということでしんどい思いをすることになります。

強制的に自己内省と書きましたが、内省プラス外に起こる現象としても「体験させられる」場合もあり、やはりそれも「今この傷を癒してね」というたましいの願いでもあるのです。

(スピリチュアルケアのトレーニングの時も、私の場合は前後1か月は「スパルタ式」でやられます。

2017年の1週間のスピリチュアルケアの研修時も、1か月くらい前に荒れました。酒を飲みすぎ、夫にあることで不満をぶちかまし(結局は自分の心の傷なのですが)、朝起きたら壁3か所(トイレ、廊下、2階の部屋)に筆ペンで落書きが。

落書きの内容はかわいいレベルではなく、悪魔が憑りついたかのような言葉や自分が勝手に作ったであろう漢字がいっぱい書かれてあり、次の日は夫にただただ謝るばかりでした。

朝から二人でそれを消しました。

このように、「自分の内面に向き合うぞーーーー」と決めたら、それまで抑えてきた不満だったり、他者への嫉妬だったりが「これ癒してね」と浮上。さらにお酒を飲むというのは危険で、元々不満や嫉妬という種を抱えているところに、同じような痛みを抱えている霊や生きている人間の念、エネルギーなども集まってきて、私一人で抱えている感情よりもぶわっと増幅されて大変なことになります。

お酒で酔っぱらうというのは、自分と他者の境界線を薄くするということでもあるので、薄くなったところから色々な影響を受けてしまうのです。

お酒を飲んで性的な問題を起こす人も、こういうのにやられているということです。

これも含めて「色々体験しなさいよー」というスパルタ方式なのですが、結果的に根底に愛があるということがわかるので、どうにかこうにかやってこれました。)

傷つくのはそれが必要だから。でもそれを人に勧めるのは傲慢

傷つく、傷つかない、癒される、癒されない。

こういうのは本当はどうにもコントロールできなくて、ただただそれが起こっているとしかいいようがないので、本当に私たちが何かできるのかと言われたら、何もできないというしかないというのが今の思いです。

傷つくという現象は、「癒されたいから」と書きましたが、だったらそれを人に勧めていいのかというとそうではありません。

傷ついてもいいから人生を良くしたいというのであれば話は別ですが、普通は「傷つきたくない」と思っているわけで、そういう人に「傷ついたほうがあなたの学びになる」というのは傲慢だと思います。

同じように「あなたはもっと学びが必要」と相手がその必要を感じていないのにこちらから言うのもおかしい気がします。

「あなたは変わらないといけないのよ」と相手を否定しているように思います。

結局、相手がありのままの自分でいられるよう、どんなことを感じていても受け止めてもらう場と感じてもらえるよう、存在そのものを受け止める、あなたに関心がありますよということを態度で伝えるということが大切になってきます。

傷ついてしまうことは、避けられないかもしれませんが、相手と一緒にいたいという自分の気持ちを大切に、その方が少しでも痛みが軽減され、平安を感じてもらえるように、愛を持って接することが大切ですね。

読んでくださってありがとうございました。

あなたの幸せもお祈りしています。

 

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