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周産期のグリーフケア「親役割の喪失」

周産期の喪失。親役割の喪失。グリーフケア。流産、死産、中絶、新生児死亡。

この記事は2012年に書いたものに少し訂正しています。

 

喪失体験は死別に限ったことではありません。

 

どのような喪失があるのかを挙げておきます。

 

グリーフケア入門から抜粋)

 

大切な人の喪失:死別、離別(離婚、失恋、失踪、裏切りなど)

所有物の喪失:財産、仕事、ペット、思い出など

環境の喪失:転居、転勤、転校など

役割の喪失:子どもの自立(親役割の喪失)、退職(会社での役割の喪失)など

自尊心の喪失:名誉、名声、プライド、プライバシーが保たれないことなど

身体の喪失:病気、怪我、子宮・乳房・頭髪などの喪失、老化現象など

社会生活の安心・安全の喪失

 

周産期のグリーフケア、流産や死産、新生児を亡くした親御さんのためのケアの一つに「親の役割」を経験するというものがあります。

 

上に挙げた喪失体験の一つに「役割の喪失」があります。

 

赤ちゃんを失ったことで、その子にしてあげるはずだった自分の役割も同時に失ってしまう。

そこで、親としての役割をするよう勧める施設も増えてきています。

写真を撮ったり、手形足型をとるというものから、親御さんが自分で赤ちゃんを沐浴させる、産着を着せる、あるいは親御さんが産着を作る、など。

 

一緒に添い寝をしたり、言葉がけをすることももちろん含まれます。

周産期のグリーフケアのそのほとんどが病院で行われますが、流産、死産は「なかったこと」にされ、親御さんは自分の産んだ赤ちゃんであるにも関わらず、会わせてもらえないことがほとんどだったそうです。

 

状況が変わり始めたのが10年ほど前(2012年から約10年前)だそうで、医療者側も「もの」のように扱ってきたそうですが近年では「人」として扱うよう変化してきているようです。

 

以前は小さな遺体を膿盆というトレーのようなものに置かれ、その後箱に寝かせて冷蔵庫で冷やすということが行われていた施設での助産師さんの言葉。

「24週で500グラムで生まれたAちゃんAちゃんは、NICUで一晩がんばって生き抜きましたが、翌日空に旅立ちました。」

「一方、Aちゃんと同じ24週で500グラムのBちゃん。Bちゃんは、お母さんのおなかの中で旅立ちました。Bちゃんは、生まれると膿盆に入れられました。」

 

「同じ24週、同じ500グラムのAちゃんとBちゃん。NICUの看護師さんたちは、亡くなった500グラムのAちゃんを膿盆に入れたりするでしょうか?」

 

その助産師さんによると、亡くなった子とお母さんが同じ病室で過ごし、そこを訪れる助産師さんたちもその子を「生きている子と同じように扱う」ことが大事だとおっしゃっています。

子を亡くしたお母さんのもとに行くのは助産師さんたちにとってもどういう態度をとっていいかわからず、とまどう方も多いとのことですが、

 

「かわいいね」

 

「お母さん似だね」

 

「お母さんのこと大好きなんだね」

 

とその子の存在そのものを慈しむことが大切なのです。

 

その助産師さんはこうも言っています。

 

ここ10年ほどで周産期のグリーフケアは手形や写真を撮ったり、思い出を作ったりと進歩してきたが、本当の意味で医療者が寄り添うということはどういうことなのか

 

寄り添うという温かい心をどこかに置き去りにしていないかとも。

 

親役割を体験するということもとても大事だが、それがマニュアルになっていないかと。

この助産師さんの講演でとても印象深い2枚の写真を見せていただきました。

 

2枚とも死産を経験した人たち。2人とも自分の亡くなった赤ちゃんを抱いて写っている。

 

■1人は笑顔で赤ちゃんを抱っこしている。

■1人は無表情で赤ちゃんをだっこしている。

 

「写真には医療者がどう関わったかが正直に写る。」

 

マニュアルとしてただ、写真を撮る、手形を取るということが大事なのではなく、それはあくまで手段なのです。

 

役割にお母さん、お父さんを合わせるのではなく、お母さん、お父さんに役割を合わせる。

人間が先、手段は後。

 

なんのためにそれをするのかというと、自分のところに来てくれた赤ちゃんが確かにお腹の中で生きていた、ちゃんと存在した、愛しい存在なんだということをお母さんに実感してもらい、赤ちゃんのいのちそのものを慈しんでもらうためです。

 

お母さんが心の根底でそう感じている感情を、心置きなく感じてもらうことなのです。

本当は赤ちゃんのことが愛おしくてたまらない。

生まれてくるのが楽しみ、これからどんな子だったのか楽しみだったのに、まさか別れることになるとは、こんなに辛いことはない。

なぜ、どうして。

赤ちゃんを抱っこしたい。

髪をなでて、お風呂に入れて、服を着せてあげたい。

おなかの中で確かに生きていた、自分たちのところに来てくれた「いのち」ということ、悲しみも愛おしさも幸せも、この子のおかげで深まった。

このように、心の奥底では感じていたとしても、

 

それを出してはいけないんじゃないか、

自分の本当の気持ちなんか誰もわかってくれないんじゃないか、

亡くなった赤ちゃんのことを大切な存在だと思ってはいけないんじゃないか、

 

というお母さん、お父さん自身も場合によってはこのような思い込みを抱えていることがあり、そういった場合は自らの心をごまかして我慢してしまうということもあるでしょう。

日本の社会がそうであったということは、その文化的な考え方が個人の考えにも影響します。

赤ちゃんを失ったパパ、ママが日本の社会で長年「無かったこと」としてきたその考え方が正しいという認識を無意識に抱いていることも多いでしょう。

数年前までは赤ちゃんが亡くなるとそれは無かったこととして扱われることがほとんどで、

 

「赤ちゃんのことをかわいいと思ってはいけない。」

 

「忘れなければいけない。」

 

「この世に存在しなかった子、次の子のことを考えよう。」

 

 

とお母さん、あるいはお父さんはそう無理に自分に言い聞かせ、悲しみを押し殺し、愛しいと思う気持ちまで封印して生きてきた人が多かったようです。

 

今回の「役割の喪失」については「役割そのもの」以前に、根底にまず赤ちゃんを失ったという喪失があります。

 

 

赤ちゃんのいのちをそのものを尊重し、慈しむこと、その上で親として赤ちゃんのために何かをするという行動が生きてきます。

 

もし生きて生まれていたら赤ちゃんのためにどんなことをしたかっただろう。

 

 

 

抱っこしたい

 

柔らかい髪をなでて、かわいいねって言いたい

 

胸に抱きよせておっぱいをあげたい

 

細くて小さな腕や足をそうっと慎重に、かわいい産着に通したい

 

おむつも替えたいし、お風呂にも入れたい

 

写真も撮りたい

 

音の出るおもちゃであやしたい

 

いっぱい話しかけたい

 

パパとママ、どこがどっちに似ているか探したい

 

兄弟やおじいちゃん、おばあちゃんにも会わせたい

 

 

私自身は赤ちゃんと会うことはできませんでした。

しかし、助産師さんのケアでとても救われた体験があります。

辛い気持ちは確かに消えることはないでしょう。

 

赤ちゃんの存在を認める」状態で辛いのと、「赤ちゃんが存在しなかったこと」と無理に思い込もうとする状態で辛いのでは全く違います。

 

 

退院後は赤ちゃんのためにぬいぐるみや、小さな産着を作りました。

これも「親の役割」に当てはまりますが、不思議と癒されます。

読んでくださってありがとうございました。

 

今回の記事は私自身、講演を聴きに行ったセミナーの冊子
「あかちゃんこどもの死を考えるセミナー

~流産・死産・新生児死亡・乳幼児死亡~」を参考にしています。

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