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相談者よりもケア提供者の方が枠やビリーフに縛られていることもある

人はみな、真実の自己にむかって歩いている


最近この「ゲシュタルト療法」で言われている5層1核の図をブログ内でよく使っております。

・挨拶の層

・役割の層

・行き詰まりの層

・内破の層

・外破の層

・真実の自己

人間はみな、「真実の自己」が表出される方向に向かって無意識レベルで動いているのですが、人によってどの状態にいるかはまちまちです。

たましいの次元で見ると子どもの方が親よりも「真実の自己」に近いところで生きていることもありますね。

日本の社会でいえば、多くの人が挨拶の層、役割の層の中で生きています

その層で生きているということは「形式」や「社会の常識・ルール」に従うことを良しとし、個人の安全・安心が守られている状態です。

その代わり本当の自分というものに気が付いていないですし、「自分は本当のところ、たましいの部分では何を望んでいるのか」もあまりよくわかっていない状態であるといえましょう。

学歴や肩書といったものに影響を受けるのもこの層ですね。〇〇大卒業だからあの人はすごい、〇〇といった役職だからあの人の言うことには逆らえない、など。

本当の自分というものが、「社会の考え」に覆われており、「社会の考え・常識・ルール」があたかも自分の考えであるかのように思い込んでいる状態です。

ですから少々どこかで不満を感じることはあったとしても、会社に行って仕事をし、家に帰ってきたら自分の時間はほとんどなく、また次の日に普通に会社に行き、何の疑問も持たない。

ある一定の年齢になったら結婚し、子どもを産み、家を買い、子どものために教育資金を用意し・・・・。

最近ではこういったステレオタイプが崩れつつありますが、それでもこういった生き方が安心・安全だと思っている人がまだまだ多いでしょう。

みんな同じだからこれが普通だと思って過ごしてる人が大半だと思います。

(※新型コロナウイルスで世界中が揺れていること影響もあり、今まで「これで良し」としていた価値観が集団レベルで一気にひっくり返るかもしれないですね。今までこれが普通と思ってやってきたことが、いのちの危機と天秤にかけてまで守るべきことなのかと問う人が増えて当然だと思います。)

挨拶の層や役割の層で生きていて、それが自分の中で当たり前になっている人は、自分の属している集団が抱いている考えや価値観に従うのが当たり前になっています。

自分の属している集団というのは、一番小さいのは「家族」ですね。

それから学校や会社、何らかの活動をしている団体やグループ、属している宗教なども「集団」ということになります。

ケア提供者よりもケアを受ける側が「深い」場合も多いにある

人はみな「真実の自己」に向かって無意識レベルで成長しています。

この「真実の自己」というのは素の自分でありながら、スピリチュアルな次元とつながった自分です。

自分を縛っている「エゴ」からの縛りがほどけ、本当に自由で愛に満ち溢れた状態であり、個人レベルで見たされていると同時に、周りの存在への貢献もできている状態です。

その「真実の自己」に近づく過程で、「行き詰まり」であったり「内破」「外破」といった自分の内面と向き合うしんどいプロセスを通ります。

「行き詰まり」はそれまで「これで良し」としてきた外の価値観が、内面が成長するにつれ合わなくなってしんどい状態ですね。

(内破、外破では抑圧してきた心の奥底の悲しみや怒り、セクシャリティなどに向き合うといわれています。)

今まで「役割」でこういうことをずっとやってきたけど、本当にこれで幸せなのか、自分のやっていることに意味があるのか、何のために生きているのかといったスピリチュアルペインを抱いている状態です。

人によっては「精神疾患」と診断されるかもしれません。

うつや燃え尽き症候群、適応障害、さまざまな依存症・・・・このような症状を患っている人の中には、単なる病気というよりも成長に向かう過程での葛藤・現状を突破して真実の自己を表現したいという衝動が、症状になって現れているのではないかと私は思います。

そういった診断を下す医療者側が「役割の層」にとどまっていて、物の見方が狭ければ「病気」という判断をしてしまうこともあるでしょう。

真実の自己にとって、仮面をかぶって生きることはしんどいのです。表層意識ではそのしんどさを感じられる人、感じられないほど「役割」に縛られている人がいますが、深いレベルで感じているしんどさが表層に上がってきたものの一つが精神的・身体的症状なのだと思います。

ここで突破するとさらに成長に向かいますが、あまりのしんどさに進むことを諦めると元の「役割の層」で生きる状態になります。

「役割の層」で生きていると一見社会に適応していますし、社会的には成功している人だと第三者からは見られるでしょう。

社会的にちゃんとした生き方をしているように見えても、本人はしんどさを抱えているということも大いにありえるのですね。

 

5層1核の図の中心に近づくほど、自分をしばっている制限から自由になり、同時に他者に対しても寛容に

自分をしばっているビリーフやメンタルブロックと呼ばれる呪縛から自由になっていきます。

大変な危機を体験し、それまで通用し支えになっていたビリーフが役に立たなくなり、自分を支えてくれる新たなビリーフを再構築することによって人格の成長、「心的外傷後成長・PTG」が起こります。

(※こういう言い方もまた枠にはめていた違和感があるのですが。)

これが気づきや癒しであり、自分の深い内面から湧き上がってくるものです。頭で考えて「こういった考えがいいから自分をコントロールしてそう考えられるように頑張ろう」とするのではなく、内面から自然と変容が起こるもの。

そういったことを何度も体験し、人はより自由になっていきます。

生きている人生そのものが気づきの修行ですし、それを人工的にやっているのが「セラピー」「カウンセリング」「対話」「瞑想」「宗教的修行」ですね。

自分を縛っている制限からより自由な方が、人の話もありのままに聴けるということになります。

ですから場合によってはケア提供者よりも、相談する側の方が、ビリーフから自由になっているということもあり得るということです。

ケア提供者に話をして後悔したことないですか

話を聴いてもらおうとしても、ケア提供者、対人援助職の人にの方がいろんな物事にとらわれていてがんじがらめで視野が狭いということもあります。

そのような人に自分の辛い話をしても、枠に当てはめた返答しか返ってこないということも起こるのですね。

一部の宗教者に対しても同じです。

宗教とは本来「信仰」「スピリチュアリティ」のことをいうので、誰の心にもあるものですが、「宗教」という言葉は本来とは違った意味でとらえられている部分もありますね。

個としての自分を超えた大いなるものの意志に従うことが宗教であり、また個を突き詰めていった際に出会う本当の自分ということもいえるでしょう。

その宗教や宗派独自の教義・形式に縛られて、あれはいいけどこれはダメといったことに縛られ、「その宗教、宗派の考え」に人間を当てはめようとする宗教者の方も多いでしょう。

宗教とは「信仰」「スピリチュアリティ」がベースにあります。本来であれば人間を自由にし、本来の自己で誰もが生きていけるよう導くのが「宗教」の役割だと思うのですが、逆の現象が起こるということがしばしばあります。

それはその宗教団体だったり宗教者本人が結局は「役割の層」の中に宗教を押し込めているからでしょう。

本来であれば「真実の自己」の部分で動いているはずの「宗教」が、たましいの部分や深層で感じる幸せよりも、それらを置き去りにしてまで表面的な正しさを優先し、結局は「制限という枠」に人間を閉じ込めているように思えます

(※宗教本来の意味を大事にして活動されている宗教者の方はたくさんいます。そのような方たちは宗教、宗派を超えて牧師さんや僧侶、神主の方がお互いの宗教や信仰を大事にしながらつながっていたりします。臨床宗教師の活動もそうですね。詳しく知りたいかたはこちらの本がおすすめです:医療者と宗教者のためのスピリチュアルケア―臨床宗教師の視点から

このように教義にがんじがらめになっている宗教者、たとえばお坊さんなどに、大切な人との死別の話を聴いてもらおうとしてもなかなか理解してくれないのですね。

そのお坊さんの持っている「枠」に相談者を当てはめようとし、相談者を諭そうとし、かえって傷つけてしまうということが起こります。

グリーフケアの活動をしていると、亡くなったご家族の納骨をどうしたらいいかというお話も聴きます。

本当にご遺族のお気持ちに寄り添った関わりをしているお坊さんであれば、その宗派で言われているような納骨の時期などにはとらわれず、「いつでもいいですよ。」とおっしゃるそうです。

私自身の体験では、3人目の子を亡くした直後に知り合いのある宗教をやっている方にそのことを話したのですが、「弱い子だった」と言われ「ダメだこりゃ」と思ったことがあります。

キリスト教系の方でしたが、その宗教の教義・考えに私やその人ご自身を当てはめようとする姿勢にしんどさを感じていました

きっとその人自身も、ご自身の本心の部分で感じているであろう葛藤だったり苦悩だったりを、その宗教の考えに無理やり押し込めて、ご自身の方を合わせようとしてきたのでしょう。

「外の考え」にそうやって無理やり合わせようとすることで、

 

「今の自分の苦しみは、もっと辛い人と比べたら大したことないんだ」

「自分程度の苦しみは我慢しないといけないんだ」

 

こういった気持ちを潜在的に抱いてきたのではないでしょうか。

 

「また聴いてもらえなかった」

「いつも自分の感覚は間違っていて、他者の言うことが正しい」

抑圧されてきた心の奥底にある本当の気持ちは誰にもわかってもらえず、孤独を募らせてこられた。

その痛みは表層意識では自覚に乏しく、しかし深層ではスピリチュアルなものを求めているので、ある宗教団体の掲げる考えに強く傾倒していき、ある部分では深く癒され、別の部分では癒されないまま、過ごしてこられた。

そしてその宗教団体もまた同じである部分ではものすごく深いことを言っていて、人の心をひきつけるものがある。しかしある部分では「縛り」が強く、それがかえって人間から自由を奪っている。

 

その自由を奪っている部分ですら、信じている人にしてみたら「この団体の言っていることなのでそれが正しい」となるので、外の人に対してもその枠に当てはめようという風に働きかけてくるのです。

本人はそれが「枠」だという認識はないでしょうし、良いことをしているという思いを抱いているので、布教活動を続けます。

布教活動というのはその宗教の掲げている考えを、誰かに伝え、信者になってもらうという行為ですが、これもまた「また聴いてもらえなかった」「私のことをわかってほしい」という痛みが、投影されたもののような気がします。全部が全部そうではないですが、冷静さを欠いている場合は特に。

ですので、これは私の感じたことですが、その宗教の人の話を私の方が聴いていたのです。

ご自身の「枠」にがんじがらめのケア提供者は現場にはいっぱいいます。

そういった人に話をしても伝わりません。

その人自身が「話を聴いてほしい」「自分をわかってほしい」という潜在的な痛みを抱えているのにそれに無自覚。

「自分にはそういう傾向があるな」と自覚し、脇に置いて話を聴くということすらできないのですね。

そういった痛みを癒す、解放できれば一番いいですが、できなくてもそういう傾向があるということを自分でわかっていれば、対話をする際に気をつけることができます。

「こういうことを言って元気づけてやりたいな」

「こういう考えがあると教えてあげて、らくにしてあげたいな」

このような気持ちが心の中に起こってきたとしても、それを言う言わないの判断が自分の中でできるようになります。

宗教者のみならず、看護師や教師、カウンセラーなどの対人援助職についているケア提供者が、形や枠組から自由になり、癒されることが大事だとされるのは、より自由になっていくことで、自分のみならず、相談者への貢献にもなるということからです。

 

ここまで書いておいての気づきですが、社会のルールや形式、宗教的な教義や儀式、作法といったものが本当の意味で生きてくるのは、それを使ったり実践する側が、主体性を持って、「自分を主」と置いてそれらは自分や他者を本当の意味で「生かす」道具なのだという自覚があるかどうかなのでしょう。

そしてパラドックスなのが、自分が主といいながらその状態は実は神様の望む状態でもあるということ。

神様、あるいは宇宙意識が望む状態というのは「エゴに縛られた自分が無くなって全体意識が自分を通して生きるということ」ですね。

「枠が主」「自分が道具」になっていると生きている実感が乏しくなります。

自分が主体性を持って生きていけるようになるためには、いったんはその「枠の中で葛藤する」という体験を経ないと、枠がどういうものであるかという実感も得られないでしょうし、その中でいろいろ苦しみながら気づきを掴んでいくということが、真実の自己に向かう過程では必要なのでしょうね。

 

こう言っていること自体もまた宇宙意識の枠の中なのかもしれませんが。

読んでくださりありがとうございました。

 

 

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