思い出の品を捨てる決断をした。スリッパさん、今までありがとう

思い出の品を捨てる決断をした

捨てる?捨てない?モノとの絆は絶つのが辛い

写真の黒いスリッパ、これは2007年に私が入院した時のもの。

夫が用意してくれたもので、病院内で履いていました。

退院後は2階のベランダで、洗濯物を干すときに履いていました。

それ以来つい数か月前まで履いていたので約11年間お世話になったことになります。

御覧の通りボロボロです。

捨てようかどうしようか迷いました。

モノとしては機能しなくなっても思い出があるので。

人生で最も大変な時を一緒に過ごし、退院後の最も辛いときから

子どもたちの成長、

家族の営み、

私の英語の仕事やグリーフケア、スピリチュアルケアの歩みなどを

そばで見守ってくれていたスリッパです。

自分で買った服やモノは劣化したら結構バッサリと捨てられますし、

所有物も増えないよう定期的に処分していてモノも少ないのですが、

こういった特別な思い出の詰まったモノは

いのちが宿っているように感じて本当に捨てるのが難しい。

後悔の念も大きいです。

置いておいて私が死ぬときに棺に入れてもらえば良かったかもなんて考えてしまいます。

私にとって2007年の入院は本当に宝もののような体験で、

その時に3人目の赤ちゃんを失ったわけですが、

同時にどんないのちも意味があって、使命があって存在するのだということに気づかされた体験でもありました。

また初めて心から「生きた」体験でもあり、

いかに多くの人たちに支えられているのかということを体感し、感謝した体験でもありました。

ベランダでスリッパを履き、その履き心地から

「あの時ああだった、こうだった」

と入院生活でのことを何度も何度も反芻していました。

 

たった一人の人間が存在するためには

天文学的な数の人間の関わりが背後にあるわけです。

それと同時にその人が存在するためのあらゆる出来事が

絶妙なタイミングで関連しあい、

偶然が重なったように見えるものすごい確率で

一人の人間が存在しているのだという気づき。

これは一つのモノにも当てはまるでしょう。

たった一つのモノが存在するには

それを生み出そうとする人間の意図がまずあり、

それが出来上がっていくための材料、環境、

作りだすための機械、

働く人間に売る人間、

それを使用する人間。

私がこのスリッパを特別なモノとして感じているのは

いのちの危機に直面し、

人生の一大事を共に過ごしたという背景があったから。

生死をさまよい、数日後目が覚めた後もしばらくは立つこともやっとで、

歩くのもヨタヨタとすぐに息切れするし、弱り切っていたのです。

そんな状態の私を足元から支えてくれたスリッパです。

 

これがもしこのような背景ではなく、

普通の日常の中でただ単にベランダ用のスリッパが欲しいと思って買ったものだったら

捨てようかどうか、置いておこうかどうか思い悩むこともなく、

「劣化したから捨てよう」ときっぱり捨てられたのでしょう。

 

「捨てる」という言葉を使うのも本当はいやで、

別れるとか手放すとかそういう表現の方がしっくりきます。

また他のごみと分けたものの、ごみ収集車に回収されるという状況ではなく、

ちゃんとお焚き上げとかそういう風に見送った方が良かった

結局最後ほかのゴミと同様に「モノ」扱いしてしまい申し訳ない気持ちも感じています。

やっぱり捨てずに取っておいたほうが良かったように思えてきます。

 

モノとの間にもこのように絆ができると

別れの時は本当にさみしいし悲しいです。

絆が深まった分、喪失感も大きく苦しい。

スリッパに「今までありがとう」という気持ちをしばらくの間送ろうかと思います。

 

スリッパ以外にも当時の思い出の品がいくつかあります。

その一つである夫が買ってきた部屋着は今でも着ます。

劣化を緩やかにするため洗うのは年に数回にとどめています。

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