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魔境・スピリチュアルエマージェンシーの体験。スピリチュアルケアの研修での出来事

魔境・スピリチュアルエマージェンシー。瞑想。恐怖。

魔境・スピリチュアルエマージェンシーという現象の存在など知らず、その時は一体なにが起こったのかわけがわからず調べ続けた結果「おそらくこういうことだろうな」と現時点で自分なりに解釈したことを書きたいと思います。

人生最大の恐怖を感じたスピリチュアルケア研修のグループワーク

上智大学グリーフケア研究所を修了後、2015年に1週間のスピリチュアルケア研修を大阪府内の病院で受けてきました。

グループワークを通して自身を見つめるトレーニングをするのですが、初日、二日目、三日目と過ごすうちに感性が研ぎ澄まされてきます。

自分の感情に焦点を当てるうち、メンバーの感情も感じ取れるようになってきます。

「今ここ」で何を感じているか心を開いてやり取りします。言葉の奥にある本当の感情を感じるようになってくるのですが、グループワークが深まると、心の底でメンバーとつながっているような不思議な感覚を抱くようになります。

また研修中は研修以外の時間も、周りの世界とつながっている感覚やシンクロニシティを感じます。

「個」を少しだけ越えたような感覚を持つのです。生死をさまよった際の宗教的体験とよく似ています。

おそらく同じ次元を感じているのでしょう。

恐怖の体験は5日目の午後のグループワークの際に起こりました。

グループでのやり取りがとてもうまく回っているように感じ、一瞬深い次元を感じ

「ああ、気持ちいいな」

「すごい!あの時(宗教的体験)の感覚が戻ってきた」

「2007年に私が感じたことは勘違いじゃなかったんだ」

そう感じた次の瞬間

「本当はこの世界は存在しない」と感じ

世界が!一瞬で消えてしまいそう、何もかもが幻想で自分が作り出した夢にすぎなかったという実感がし、大変な恐怖を感じました。

「この世は幻想」とはよく耳にしますが、深刻に思い悩んでいる時はそう考えることで気楽になれるのかもしれませんが、この時はそうではなく「絶望」「恐怖」「孤独」を感じ、グループワークのセッションを抜けるという事態になってしまいました。

この時に先生方が真剣に関わってくださいました。私のような体験をして人は初めてだそうです。※その後瞑想修行で意識のコントロールをすること勧められました。

グループワークではみんなをのつながりを感じ、存在しているものはすべてが一つ「ワンネス」ということを実感しましたが、次の瞬間そのこと自体が絶望のように感じられたのです。

全てが「わたし」だったなんて。

他者がいる他者と関われるということ、私と他者は別の存在であってほしい。

真実はというと「非二元」「ワンネス」と言われる通り、個を超えて突き詰めればすべてが「わたし」になりますが、そのこと自体が私にとってとても「寂しい」「孤独」と感じたのです。

よく聞くのはワンネスや非二元の体験をすると、他者への愛おしさが増して平安な気持ちになるというものですが、私の場合は他者への愛おしさは感じましたが恐怖と絶望でした。

他者が他者という形で存在していてほしい

良い所も悪い所も含めて、みんながいびつな存在であるからこそ愛おしい

他者が本当は存在しない、この世は夢ということが絶望でしかない。

夢から覚めるとその先は絶望。真実の世界は絶望の世界。

絶望、恐怖から逃れたい気持ちで「人間であること」に執着。

超えるのは怖い。人間でいたい。そのためには少々の悪事を働いて業を作ろうか。

このように「個」としていさせようと強い力が働くのです。

自我の死。「個」を越え大いなるものと一体になる前に邪魔をする力が働く

この記事を書いているのが2018年ですが、現時点でまだ「個」を超えていないので私の体験というよりは、いろいろと調べて理解していることを書きます。

私の場合、個を超える直前か一段階前くらいの所だったのではと思います。

2007年の体験でも「超えそう」と感じた直前に邪魔されてインスピレーションが変な方向にいき、「死の恐怖」を感じ錯乱したため鎮静剤を打たれ、その副作用で「離人症」のような症状を体験しました。

離人症状では私とは異なる何者かの考えが頭に浮かぶのです。「お前は死んでいる」とか。

死の恐怖と、この世界が無くなる恐怖は共通しています。存在が無くなるという恐怖です。

元々非二元、ワンネスなので、個を超えた世界が真実であり、「個」が存在するということが幻想ですが、私たちの意識は3次元の「個」の世界にどっぷりつかっています。

3次元の世界つまり分離の世界に意識の重心があるので、私と他者が別の存在だと実感しています。

非二元に意識の重心を置くと地球上の生き物、存在全てひっくるめてどこからどこが「個」という区別はありません。

全ては神さま仏様、宇宙の現れということになります。

ありや蜂、イワシのように、植物のように、他の生き物のように人間も宇宙の意思に従って生きていくことが、「個」を超えるということ。

そうなると自分も幸せ、人生の流れもスムーズ、宇宙の意思にも沿っている、他者貢献にもなっているという状態になるのですが、人によってはそうなる前に「個としての自分が死ぬような体験」「自我の死」と呼ばれる状態が訪れるようです。

個としての意識、自我が「自分が消えるのはイヤだ」と抵抗するということで

超えさせないような「恐怖」「絶望」「不安」「焦り」などといった強い感情を引き起こし、どうにか3次元の世界に意識の重心を持たせ続けようとするようです。

 

スピリチュアルケア研修の前後は真我に近づくが「魔」の力も増す

スピリチュアルケアの研修というのは「個」を超えた世界に触れる状態を体験する研修です。

個人差がありますが、ビリーフから自由になっている度合いに応じてよりその傾向があるようです。※チャプレン小西達也先生の言葉にもありました。

(スピリチュアルケアの研修に限らず、人がその人本来のミッションやライフワーク、使命に生きようとするということは、生き方そのものが「個を超え全体意識、宇宙意識の現れとして生きる」ということになります。

自覚はなくともそのような生き方に向かっている人は多いと思いますし、「非二元」など知らずにそのような生き方をしている人もいるでしょう。

それがその人にとっても宇宙にとっても最も自然な姿でもあるわけですが、人によっては個を超える前には「魔」を体験します。)

私にとって、グリーフケアやスピリチュアルケアに携わることが自分本来の姿、個を超えるということだと思っています。

今まで3回1週間の病院研修を受講しましたが、毎回シンクロニシティを感じ、心の深い次元を見ることになりますが、同時に「魔」「心の闇」も研修数日前や研修後も強まるということがわかってきました。

幸い大半の時間は平安な気持ちで過ごしていて、魔のようなものを体験する際も「あ、きたな」と理性が働くので「魔自体が幻想」と言い聞かせて過ぎ去るのを待つという感覚です。

個人の潜在意識、無意識と呼ばれる領域は想像しているよりももっと深く、自分では理解しきれないような暗い部分もあるように思います。

これは私だけではなく、全ての人に共通すると考えています。

 

逆の考え方。「魔」を感じたら真我に近づいているということ。引き込まれないように!

自分本来の深い部分につながるものに近づいたとき、神性や真我といったものに近づいた時、それを邪魔しようと働くのが「魔」ということを述べました。

魔というのは「個」として留まり続けようと働くもの、他者や宇宙とは別の存在だと「分離意識」留まらせよう、宇宙を信頼するのではなく「個」としての自己保身の中に落とし込めようとする力です。

世界と自分は別。自分の外に世界がある。

このように実感していることが普通ですが、それゆえに自分個人としての生活だったり、面子だったりを考えてしまい、行動や思考の大元の動機が

「自己保身」

「不安から逃れるため」

「恐怖から逃れるため」

という風に感じる場合、それは「魔」ともいえるわけです。

ということはこのような不快な感情を感じたら、同時に真我にも近づいていると解釈することができます。

魔の感情は感じるだけ感じる認めるのが良いかと思います。

しかしそれに引き込まれない、変な行動を起こさないことが大切なのではないかと思います。不安や恐怖が動機の行動というのは結局「個」を保つための魔ということなので、感情は揺れてはいると思いますが、それ自体「幻想」。

個を超えようと思えば行動の動機は「愛」「喜び」「それをしたいから」という感情に従うと宇宙と一体となって生きていくことができ、自分も幸せを感じるみたいです。

超えるとどうなるのか

まだ体験したことがないのでわからないのですが、魔は幻想にすぎないので、超えると意外となんでもなかったと感じるようです。

しかしそこが大きな山でもあるようです。

少し前に阿部敏郎さんの瞑想ワークショップに参加し、「恐怖」について私と同じようなことを尋ねている人がいました。怖いけど大丈夫と答えていらっしゃいいました。

自分の存在が消えるような感覚、個としての自我が消えるので大変な恐怖を感じるが、超えるともっと大きな次元でのまさに「個を超えた」自分の存在を感じるようになるようです。

それまで「個としての自我」が人生の舵をとっていたのが、「個を超えた大いなる自己」が舵を取り自我はその道具として働くようになると言われています。

信仰が大事

2007年、2015年と超えそうな感覚になったにも関わらず、恐怖・絶望という魔に入られた原因を考えてみました。

それは信仰心が薄かったからだと思います。

2007年の時は普段特に神様や仏様、宇宙といった存在への感謝や信仰、信頼もなく、突然宗教的体験をしました。

その後少しづつそのような存在があるということは分かってきましたが、信仰としては薄かったのだと思います。

半信半疑の気持ちもありました。

今でもあるかもしれません。

信仰というのは、何かの宗教団体に所属しなくても、自分の信じる大いなる存在、神様でも仏様でもご先祖さまでもサムシンググレートでも、宇宙でも、なんでもいいので自分を支えてくれている「個」を超えた存在を信頼するということです。

同時に自分を信頼するということでもあると思っています。

そのような大きな存在、個の意識では到底理解しきれないような存在にいのちが支えられている。空気があって息ができる、水が飲める、歩ける、感情を感じる、コミュニケーションができる、食べることができる、楽しむことができる。

挙げればきりがないですが、このような人間としての活動、生物としての活動ができること、いのちがあること自体がお大いなる存在に支えられているということです。

自分は特になにもできないし、自分の力なんて大したことない、と思うこともあるかもしれませんが、存在しているだけで奇跡です。

そんな奇跡のような存在である自分が、神様、仏様、大いなる存在から見放されているはずがない。

実感は薄くてもいつも一緒にいて支えられています。信仰というのはそんな自分を信じること、支えられているから大丈夫と信じることでもあると思います。

現時点では心が平安なことが多いですが、個を超えてはおらずまだ魔境の段階だといえます。

このような状態を繰り返すことで「抵抗力をつけている」のかもしれないと鎌田東二先生からは言われました。

徐々に自分の中でも魔や心の闇がどのようなものなのかが掴めるようになってきたので、抵抗力をつけているという言葉はその通りだと思います。

この人生で個を超えることができるのかはわかりません。できなくてもやりたいことをやって幸せな人生を送ることができればそれでいいかと思っています。

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