グリーフ(悲嘆)を抱えるのは人を亡くしたときだけではない 2012年執筆

昔の記事、いくつかはバックアップを取ってあり、回想の意味も込めて読んでいる今日この頃。

2007年2月にトヨタのアルファードがうちにやってきました。

子どもが3人になるということで大きい車に乗ろうと決めたのです。

結局3人目の子は亡くなりましたが、思い出深い車でした。

2012年12月に手放すことになり、その時に書いた記事です。

 

一般的にグリーフといえば、大事な人を亡くした遺族のためのものと捉えがちである。
しかし、人を亡くす以外にも様々な喪失体験がグリーフになりうる。

失恋、離婚、失業、引越し、体の一部を失う、若さを失う・・・・。

大きく分けて以下のようなものが挙げられる(グリーフケア入門から抜粋)

大切な人の喪失:死別、離別(離婚、失恋、失踪、裏切りなど)

■所有物の喪失:財産、仕事、ペット、思い出など

■環境の喪失:転居、転勤、転校など

■役割の喪失:子どもの自立(親役割の喪失)、退職(会社での役割の喪失)など

■自尊心の喪失:名誉、名声、プライド、プライバシーが保たれないことなど

■身体の喪失:病気、怪我、子宮・乳房・頭髪などの喪失、老化現象など

■社会生活の安心・安全の喪失

このように、人生そのものが喪失体験の連続なのだ。

大切なものを失っていく過程で、あるものは大丈夫でもあるものは悲嘆となる。

私のように死産や子宮摘出、自分の生命まで危なかったという大きな経験をし、

しかも今グリーフケアを提供する側として講座に通っていると、

「じゃあちょっとやそっとのことでは辛くないんじゃない?強くなったでしょう。」と思う人もいるだろう。

確かに、その経験のおかげで強くもなった。

色々な大事なことにも気づいた。物事の捉え方も変わった。

グリーフの過程についても知ることとなったので自分の状態を客観的に見ることもできる(と思う)。

しかし、だからといって辛い感情そのものを感じないというわけではない

先日、車を売ることになった。

6年前の入院中にうちに来た車だ。

車というものそのものには興味がないのだが、

6年前から私たち家族のことをいっぱい見ている思い出の詰まった車を

心の準備がほとんどできないまま突然売ることになってしまい、家族と別れたような気持ちになった。

今もちょっと気分が落ち込んでいるし、昨日の夜は1時間ほども布団の中で泣いてしまった。

車に色々と投影しているのかもしれない。
他のものは割りとポンポン捨てることができる性格なのだが、

「家」と「車」に関しては昔から別れが辛くなる。
私だけのものではなく、家族、生活に密着しているものだし、

日々楽しかったり悲しかったり、嬉しかったりする自分を支えてくれたものだからなのか。

思い出が詰まったものとの別れは本当に辛い。

小3の時も車を買い替えるときに泣いた記憶があるし、

高校に入る前にそれまで住んでいた家を壊して新築にするときも泣いたのだ。

いい車だったから手放すのが辛い、というのではなく、それがボロボロだったとしても辛いのだ。

どんな状態であれ、愛着があったものだから。

今もこれを書きつつ涙をこらえている。

こういうときは我慢せずに泣いたらいい。

「私のケースは死別じゃなくてただの失恋だから大したことない。」

「人が亡くなったわけじゃない、まだマシと考えよう。」

このように死別以外の喪失体験をした人の中には悲しみを過小評価し、

辛さを我慢してしまうこともあるのではないだろうか。

我慢せずに、泣いたらいいし、信頼できる人に話してらくになったらいい。

1台の車との別れがこんなに辛い管理人でした。

 

昨年2018年のスピリチュアルケア研修(pscc)での気づきの一つ。

私はディズニーの映画「インサイド・ヘッド」に出てくる
カナシミだったのかもしれないということ。

普段から色々と感情が動いてしまう。

最近は切り替えが早くなったでしょうか。

死別以外にも辛い別れはいっぱいありますし、

死別以外の悲嘆の苦しみも大きくて深いです。