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人間だというのも思い込み。いのちが人間をやっている

本当は私たちは人間ではなく、一人ひとりが「仏」「神」「宇宙意識」、そして周りに展開する世界、出来事も「仏」「神」「宇宙意識」のはたらき。

※私自身はどの宗教にも属していませんが、あえて言うなら仏教に親しみを感じるので以下「仏」と表現していきます。

(※宗教の教義で仏教はどうのこうのキリスト教はどうのこうの、という話はいたしません。どの宗教に入っているかいないかということではなく、宗教と呼ばれる仏教、キリスト教、神道、イスラム教など、根っこは同じことを言っています。)

私たちは人間ですが、人間が普通に抱いている「これが人間だ」というイメージの人間ではありません。

「私たちは人間だ」というのは、個人としての意識が抱いている「思い込み」です。

「仏」の次元から見ると人間ではないのですね。

気づきを深めたい方は阿部敏郎さんの本を読むのもおすすめです。

みんながブッダ【CD無し】

阿部敏郎さんという有名な人が言ってるからこのことが正しいのではなく、読んでいるあなたの中にすでに仏性があるから、それを思い出すツールとして本や教えと出会うのです。

このブログも同じです。まあ私は真理の直観は感じられるものの、それ以外では「個」としてまだ縛りを抱えておりますが・・・。

結論からいうと、個人としての「私」=「世界」=「仏」。

個人が抱えている全ての思い込み、ビリーフから解放されると、あるがままの世界と私がイコールだったと気づきます。

そして「個人」という存在は本当は存在しないということもわかります。

個人は存在していなくて、ただただ仏のはたらきが、個人を通して現れているのだということがわかります。

「私はいる」

そう捉えている状態がごく普通だと思いますが、その普通の感覚自体が思い込みなのです。

不思議ですねえ。

「私は一人の人間として存在しているじゃないか」

「〇〇県で生まれて、子ども時代はあんなことこんなことがあって、

得意科目は〇〇で苦手科目は〇〇。

仲の良い友人は〇〇ちゃん。

大人になってから興味を持ったのは〇〇で、今の家族構成は・・・・仕事は・・・・。」

自分のことを考えると「やっぱり個人として生きていて存在するじゃない?」

そう感じますよね。

過去の記憶から色々と証拠を持ち出してきたわけですが、それもまた思い込み。

過去に体験したことというのは、記憶になって残ります。

「記憶は自分のもの」、「自分が体験したんだ」という思い込みが新たに作られているだけなのです。

もともと個人として存在しているわけではないのに、体験し記憶を重ねる毎に、「これが自分」というビリーフを強化しているのです。

だから「私」という人間が存在しているように錯覚し、その錯覚の中で生きている。

それが人間です。

「個として存在する一人の人間」とごく普通に私たちは感じていますが、それは自我の確立といって、人間として生まれてきて通る一つのプロセスです。

生まれたばかりの赤ちゃんは、自分とお母さんの区別がついていません。

育っていく中で「自分と他人は別の存在だ」と認識するプロセスを経て、個人としての自分をしっかりと持つのです。本当はそれも幻想ですが、まずはこの段階を通るのですね。

それから、色々な苦難などと通して自我から解放されていく経験を積むと、

自分も他人も実はつながっているんじゃないか、

自分と世界もつながっているじゃないか、

というふうに、それまでのビリーフに徐々に穴が開いていくように、気づきがもたらされます。

 

本当は固定された自分は存在していない、ただただ仏のはたらきが人間という器を通して現れているだけなんだ。

だからどんなことを思っても、感じても、言っても、行っても、それは個人の自分がやっているようで、実は仏のはたらきにすぎないんだ。

自分がやっているように感じるけどそうではなかった。

最終的に、生きている形態は人間の身体を持っているけれど、同時に仏として生きる、世界とイコールの状態で生きる状態が「解脱」です。

空海の「十住心論」で述べられている意識の最終段階である秘密荘厳心(十識)です。

参考文献:「密教 大楽に生きるワザ—統合瞑想があなたを変える

 

仏教によると肉体を持ったまま解脱する場合もあれば、死後たましいが気づきを深めて解脱に至るという場合もあるようです。

そして「私は個人として一人の人間だ」というビリーフを抱き続けている人は、解脱には行かずにまた輪廻を繰り返し、死後も「個」として存在し続けます。

その場合は死後の世界にいるのか、また人間に生まれ変わって解脱ゲームを繰り返すのかはそのたましいによるでしょう。

すでに天国にいる。解脱すると「あれいや」「これいや」とこだわる心が無くなり「今ここ」に心を開くことができる

本当のところはみんながそのままで仏なのです。

そう思えないのは心の中に色々な傷や思い込み、偏見、制限、などといった個人として「これはイヤだな」というビリーフを抱えていることに加え、先ほど申しました「自分は個人として存在する」といういわば人間としてごく普通に抱いているビリーフがあるからです。

どんなことを思っても、感じても、言っても、行っても、それは何の間違いでもなく、あなたがやっているように思えるけれど、そうではない。

それから「今ここ」で取り組むべきことがあると思いますが、それを楽しむ、没頭する、集中する、くつろぐ、などそれをやることによって、幸せを感じたり、満ち足りた気分、充足感、平安、人に対して慈しみの心、などを感じる状態がそのまま「仏の世界」であり「天国」です。

本当は今見ている世界、体験している世界が、初めから天国であり涅槃です。

「それもまた極端な。イヤなことはいっぱいあるし、到底そうは思えない。」

このように感じるのが普通でしょう。

全ての思い込み、ビリーフから自由になると、個としての自分が本当はいなかったという衝撃の事実に気づき、

同時に外の世界は天国そのものなんだという気づきが訪れ、外の世界で何が起こっても、

個としてそれにとらわれて苦しむことはない、「痛み」は感じても、それにとらわれ続ける「苦しみ」を抱え続けることはなくなります。

個としての自分がいないとわかった時、仏の意識になり、個がいないのにも関わらず、その個性が最も生かされる形で、世界と連動する感・状態・そのはたらきそのものとして生きていくことになります。

個性は道具として最大限生かされるのですね。

苦悩を抱えていても、世界は心の映し出しというのは同じこと

本当のところは初めから天国であるのに、そうは思えない、

人によっては地獄のような世界に住んでいるというのは、これもまた個人として心に抱えているビリーフが外に映し出されているということ。

一人ひとり、その人固有のビリーフからできた世界に住んでいます。

ですから、外の世界で何が起きても、それは同時にその人個人のビリーフの枠を越えることはないのです。

枠の範囲で起こっていることであり、どんなに辛く悲しい苦しいことえあっても、必ず支えとなる人、支えとなる教えも存在しています。

そしてそのような体験というのは、「これが自分だ」という自我が抱えるビリーフをある意味壊す力を持っている。

それまでは「こういう時はこの方法で」とか、自分なりの解決法が使えたと思うのですが、それまでの方法ではもうどうしようもない。

自分の力ではどうすることもできない。

解決策など見つからない。

もうどん詰まりでただただ心の中で祈るしかない。

いや、祈ることもできないかもしれない。

もう諦めるしかない、絶望。

このように自我ではどうすることもできなくなった時、救いが現れる、仏のはたらきが現れます。

(このことを書いてしまうと期待させてしまうかもしれませんが・・・。期待しているうちは現れません。)

地獄のような状態も心の思い込みが作り出した世界。

「私は罰せられて当然」

「人生うまく行かなくて当然」

「人に罵倒されて当然」

「次々に不幸が起こるのが私の人生だ」

「他人はいつも幸せそう」

「良いことをしても幸せになれない」

「次々に問題が勃発して苦労が絶えない」

 

いわゆる犯罪を犯すような人に対して恨みつらみを持っている人だけがこのような世界に生きているのではなく、「良い人」であっても自己認識が上記のような状態であったらそれが現実に反映されます。

(それから愛情深い人もまた、大切な人との別れによって、より深い悲嘆を抱く傾向にあります。)

 

個として握りしめている思い込みが外の現実を作るのと同時に、

個は本当は存在していないので、このような思いや感情もまた「仏」のはたらきが現れているにすぎないということ。

どんなことを感じたとしても、それは勝手に感じさられているということ。

 

勝手に感じさせられている、自分にその責任はないんだとわかってはいても、そんなイヤな感情を感じるのはイヤですよね。

自分はいないんだと言われても、いないという実感もないし、いるとしか思えないし。

少しでもらくになりたい。

重荷から解放されたい。

そのためには、個として抱えているビリーフを解放し、心を軽くし、浄化していくと、実際に現実も変化してきます。

そして、ビリーフを解放するというのは、消して無しにするということではありません。

例えば、大切な人を亡くした際や深く傷ついた際に抱く「グリーフ」「悲嘆」。

それそのものに心を持っていかれると非常に辛いわけですが、自分に向き合うことを続けていくと、それを自分のものとして統合できる時がくるというか、それそのものが恵みになる時がきます。

 

心に向き合うというのは、人生を真剣に生きているからこそ行うことですし、

あれこれ「イヤだな」「しんどいな」と感じる気持ちを放っておかずに「どうにからくになりたいな」「誰かに話しを聴いてもらいたいな、わかってほしいな」と思うのも自分への優しさですね。

どうすればもっとらくになるんだろう?

平安で心地よく過ごせるにはどうしたらいいいんだろう?

自分に優しくして、満たされた時間が増えていくと自然とそれが他者貢献になります。

自分に優しくすると、どんな自分でも「そうか、そう感じるのか」と受け入れる度合いが深まります。

そうすると、他人のことも受け入れられるのです。

だから人からも「この人の前ではらくでいられるな。言いたいこともきっとちゃんと聴いてくれるだろうな。」と思われるようになります

 

心が変わると現実の受け取り方も変わり、生きるのがらくになっていきます。

関連記事:イラストで説明。2種類の個人セッション。グリーフ・心の傷の癒しのケアと自己実現・飛躍のケア

 

カウンセリングやセラピーはそのためのツールです。

ビリーフの解放は一人でも取り組めますが、専門家の力を借りると時間を短縮できますよ。

これもまた仏のはたらきの一つにすぎませんが・・・。

 

今日も読んでくださりありがとうございました。

 

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