今回はモヤモヤしていることを内省して、浮かんでくる気づきを書いていこうと思います。
まとまりの無い文章になるかと思います。
人間の心、スピリチュアリティ、真理の探究などを通して私自身、深い気づきも得て日常生活の生きやすさも格段と上がりました。
しかしながら依然として
「こんな振る舞いはイヤだし受け入れられない」
こともあります。
そう思ってしまうのは、私のエゴなのか?
と。
というのは、私が生死をさまよい一瞥体験・覚醒体験と呼ばれるスピリチュアルな次元の気づきがあった際、
社会的、道徳的にNGとされる行為を行った人に対して(テレビのニュースなどで見て)、
嫌悪感を抱いたり、「その人は悪だ!」と責める気持ちや、感情が揺さぶられることは無かったように思うのです。
ただただ、その人がある状況化において加害者になったということに対して、「自然と起きてくることの中の一つ」という風に受け止めていたように思います。
私の中で、こういう行為が良くてああいう行為はダメ、という意味付けがされなかったように思います。
しかし、その体験からしばらくすると意識は元通りになります。
すると「自分特有のものの見方」が戻ってきます。
私の場合、人生観が大きく変わったのと、その後も自己浄化に努めたりスピリチュアルケアの訓練や瞑想などに取り組む中で、
利己的な考えに偏っていた若い頃と比べて大きく成長した実感はあります。
以下の3つについてまず考えてみます。
| ■人の精神状態は良い時と悪い時を繰り返す
■自分も相手も「いのちある人」として接するのか、「モノ」のように利用するのか ■放ったエネルギーはタイムラグを経て戻ってくる |
人の精神状態は良い時と悪い時を繰り返す
キリスト教カトリックの修行の一つ「霊操」で述べられていました。
人間の心は神からと悪霊からの両方の働きかけがある。
慰みと荒み。
簡単に言うと愛と恐れ。
慰みの時は神からの働きかけの時で、自分への信頼が感じられ、他者に対して愛の心で接することができる。
荒みの時は悪霊からの働きかけの時で、自分への信頼が無くなり、自己否定が強まり、他者不信や他人の欠点ばかりに注意がいくようになる。
関連記事:その行動の動機は「愛」か「恐れ」か
神とか悪霊とか、なんだか宗教チックな言葉で説明されていますが、単に物理法則でもあります。
特に、身体の状態、内臓や神経、ホルモンの状態が精神状態に影響するので、バイオリズムによって心の状態が良い時と悪い時が出てきます。
天候や気圧も関係しますね。
色々書きましたが、ようは人間の精神状態が良い時、悪い時と波があるのは当たり前ということです。
誰であっても、良い時と悪い時がある。
次にいきますよ。
自分も相手も「いのちある人」として接するのか、「モノ」のように利用するのか
行動の動機が先ほどの「愛か恐れか」です。
「いのちある人」として接する=「愛からの言動、行動をとる」
「モノ」のように利用する=「恐れからの言動、行動をとる」
簡単にいうとこうなります。
理想は自分に対しても相手に対しても「愛」で接することなのですが、
これがなかなかうまくいかないこと、ありますよね。
自分を大切にしたいから、〇〇という提案をしたら相手が怒った、等など。
逆に相手の考えを大事にして、自分の主張はぐっと我慢。自己犠牲を強いられてしんどいこともあります。
ここで私は思い出しました。
NOということの大切さです。
NOと言ったら不機嫌になったり攻撃してきたり、去っていく相手は、そもそも私のことを大切に思っていないのです。
心からつながる関係ではなく、その人にとって都合よく支配でき、言うことを聞いてくれる相手だから関係が続いていただけでは?
もちろん、そのような相手であっても、心がつながっている時も無いことはないでしょう。
100パーセント利己的な動機ということはないので。
そして、NOと言いたくても言えない状態って愛でしょうか、恐れでしょうか。
相手にとって、相手の大事にしているものを私が大事にすることは「愛」なので、一見相手に対しての愛のようですが
私自身にとってそれは「恐れ」も含んでいます。
攻撃されないように、不機嫌にさせないように、という選択であり、自分を守るための不本意な行動です。
しかしNOと言ったら相手に攻撃されるかも、と思いながらそれでもNOと言って攻撃されてしまったら・・・・。
相手が私のことを大切にしていないのです。
人間の精神状態には良い時と悪い時があると書きました。
それまで良くても、何かのきっかけで急に不機嫌になったりと急変化する場合もあるでしょう。
悪い状態の時は特に相手のことを悪く思ったり、欠点が目についたりしがちですが、だからといって感じる感情のままふるまうのは違うと思うのです。
良い時は誰でも人に対して優しくできますが、悪い時こそ、自分の感情に左右されずにいることが大事なのではないか。
悪い時にこそ良い時にするであろう態度が問われるのではないか。

