グリーフケアやスピリチュアルケアではただそばにいることが大事と言われているが・・・
大切な人を失い、悲しみにある人や大病を患ってただならぬ不安のさなかにいる人が抱える、解決策のない心の痛みを「スピリチュアルペイン」と言います。
「たましいの苦悩」「霊的な痛み」などとも呼ばれています。
心の中では絶えず問いを立てている状態であっても、その問いに対する答えが見つかるとも限らず、何が正解かもわかりません。
安易な慰めや気休め、アドバイスや「その気持ちわかるよ」などといった軽い気持ちでのやりとりが傷つくことも多々あります。
Not doing, but being 何もせずともそばにいること
doingとは何かを行うという意味になります。
悲嘆にくれる人を前にして、例えば
状況だけで判断し、良かれと思って正論をかざしたアドバイスを言う
その人の気持ちを勝手に想像して、喜びそうな慰めを言う
自分も同じような体験をしたときに感動した本を、「絶対に癒されるから」と勧める
この人が変わらないといけない、考え方をあらためないといけないと、自分の意見を言う
このような行為を言います。
もう少し深く説明すると、目の前の人のペースや感情に寄り添うというより、「自分が何かしなくてはいけない」「どうにかしてこの人にらくになってもらいたい」
という思いが先立ってしまって何かをするという行為に陥った状態と言えるかと思います。
「自分が何かしなくてはいけない」
「どうにかしてこの人のらくになってもらいたい」
という動機で、何もできない自分が役に立たないようで、いたたまれず、そんな気持ちを感じたくないがために、余計な言葉を発してしまったり、相手の気持ちとずれたことをしてしまったりする。
つまり、
そんな自分を体験するのはイヤ。
そんな自分から逃げたい。
辛い人の役に立っているという「自分の価値」を感じたい
という自分本位の気持ちが、相手を思う気持ちよりも勝ってしまい結果的にそれが相手にも伝わるので
「この人なにもわかってくれない」
「誰も私の気持ちをわかろうとしてくれない」
「すでに苦しんでいるのにそれ以上苦しめるのか」
「私の方がこの人の聴き役みたい」
「うっとうしいな」
「この人は私に興味があるんじゃなくて自分に興味があるんだね」
「あんたが輝く場じゃないでしょう」
という風に感じるかもしれません。
もちろん、100パーセント自分のことばかり考えているわけではないでしょうし、目の前の人に少しでもらくになってほしいという気持ちも抱いているからこそ、誰かの役に立ちたいと思い、このような活動をしているのだと思います。
しかし、自分を見つめることを徹底していないと、上記のように、話を聴く際に自分のエゴが混ざることとなり、結果目の前の相手を傷つけることにつながります。
発する言葉、行いの動機に「自分本位な心」が混ざっていれば、その発言なり行為なりはしない方が良いでしょう。
実行に移すとしても、「これは自分のためかもしれないけど」「正直どのように言葉をかけたらいいかわからない」
などと正直に伝えつつ、相手に話した方が正直で誠実な態度から相手にとっても信頼につながるかもしれません。
役に立とうとしなくていい。ただ心を寄せてほしい
being はただそばにいることという意味になります。
目の前の人がどのような気持ちでいるのか、感性を研ぎ澄ませ、その気持ちを受け止める。
状況によって、ただ目の前にいる人の話にひたすら耳を傾けるということもあるでしょうし、たわいのない会話を続けるということもあるでしょう。
深い会話に発展することもあるでしょうし、一緒にゲームをしたり、テレビを見るという時間になるかもしれません。
心の深い部分の会話をしてもらうことが一見「ケア」のように思えるかもしれませんが、それだけがケアなのではなく、沈黙の時間であっても、一緒に雑談をすることであっても、ゲームやテレビなども時にはケアになることがあります。
beingは形にとらわれません。
「その人と一緒にいたいか」
「同じ時間を過ごしたいか」
ということが being になります。
being の落とし穴。文字通りの「ただいるだけ」
藤井理恵先生、藤井美和先生の本にあるエピソードが書かれてありましたので抜粋させていただきます。
この本、グリーフケア・スピリチュアルケアに携わる人にとって学べることが多く、とても役に立つかと思います。
「増補改訂版 たましいのケア」p.47から
ことばはいらない、ただ黙ってその人のかたわらにいることが大切である」ということの中にも、大きな落とし穴が隠されていることがあります。
ある看護学校の学生が実習生として、一人の患者さんについた時のことです。その実習生は何も言わず、ただ黙って長時間(患者さんには長時間と感じられる時間)そばに座っていました。
患者さんにとってはそれは非常に苦闘な不快な時間だったと言います。
おそらくこの実習生は、ことばはなくてもただ黙ってその人のそばにいることが大切だと教えられ、それをそのまま鵜呑みにして実践したのでしょう。
しかし、ことばがなくても共にいることで慰められるのは、その人の思いが自分に向けられていると感じられる時です。
患者さんを抜きにした行為ー単なるテクニックや自己満足であるなら、それは相手に苦痛を与えるだけでしょう。」
ただそばにいる。
これは身体だけがただぼーーーーっとそばにいるということではありません。
相手に関心がないのに同じ空間にいられても苦痛を感じさせてしまうだけです。
物理的には一緒の場にいても、一緒にいないのと同じ。
心もそばにいないと意味がありません。
患者さんの苦痛を感じ取った場合は、その場を去ることも必要だと述べられています。
「ことばがなくても共にいることで慰められるのは、その人の思いが自分に向けられてると感じられる時」
やはり、なにをするしないではなく、「心がその人に向いているかどうか」ということです。
読んでくださりありがとうございます。