小1から高2か高3頃までピアノを習っていました。
大人になってからもピアノのレッスンの夢をよく見ます。
今日も見ました。
内容は
ピアノの練習不足のまま、レッスンの時間が迫っていて、休みますという電話を入れようかという場面や、
ピアノのレッスンを辞めると伝えようかどうしようかという場面。
見るたびに習っていた当時の重苦しい気分がよみがえってきます。
ピアノは嫌いではなく、やる気スイッチが入った時は一生懸命練習していましたが、レッスンで習う曲ではなく自分が弾きたい曲。
でも、レッスン用の曲を一生懸命練習することはあまりなく、前日や当日になって慌てて練習するのがお決まりでした。
当然、上手に弾けません。
レッスンに行く前からそれがわかっているので、週1回30分が苦痛でした。
厳しく怒られることはなかったものの、やる気のない生徒に呆れているであろう先生の気持ちを思うと、どんよりとした気持ちになったものです。
高校生くらいになると、学校のテスト期間や体調不良を理由によく「休みます」という電話を入れていました。
練習をしないのは小学生の頃からです。
基本、前日や当日しか練習しないのですが、母に言われた時にのみやっていました。
そして、当時私は「練習したいけど自分から進んで練習するのは恥ずかしい」と思っていたので、言われるまでやりませんでした。
なぜだかわかりませんが、自主性を発揮したくても、恥ずかしいというか「そんなことは私らしくないから非常にハードルが高い」と思っていました。
ピアノの他にも、おもちゃを出したら出しっぱなしで、片づけたい気持ちはあっても、そうするのがなぜか恥ずかしい。
「そんなことは私らしくない」
当時、このように明確に言語化できたわけではありませんが、そう感じていました。
「やりたいけど、私がそんなことをしたら変だ」と。
おもちゃの片付けも、ピアノの練習も、最初はちゃんとしたい気持ちがあったのですよね。
でも、やらないでいるうちにそれが習慣になっていきますよね。
すると親も「この子は片付けろと言っても片づけない子なんだ」
「この子はピアノを習いたいと言って習ったのに練習はしない子なんだ」と、私に対するイメージができます。
そして私は私でやらない、親はますます「やらない子」という認識が定着、そしてやらないのが習慣、当たり前に。
「私はやらない子。なのにちゃんとしてたらなんか恥ずかしい」と思うのですね。
親が私に抱くイメージの自分でいないと、なんだか心地悪いというか。
ピアノは自分から習いたいと言って習わせてもらったのですが、レッスンに通うのが気が重く(練習をしていないので当たり前だが)、
親からは何度も「ピアノやめたら?」と言われていました。
しかし、ピアノをやりたいと頭では思っていた、というか、本当はやめたいのにやめたくないと自分では思っていました。
本心は自分でもわからなかったのです。
だから10年以上も続けたのですが、本当の気持ちは「ピアノやめたい」でした。
小学生の頃は、放課後友達と遊んでいる時からピアノのことが気になり、
中学時代になると自主的にピアノを弾くようにはなったものの、レッスンとは関係ない自分の好きな曲ばかりだったので練習不足に変わりなし。
やめることもこの頃は考えるようになり、その選択もできましたが、それを自分から先生に言いづらく、結局高校生になっても続けることに。
どうしてやめると言い出せなかったというと、先生に対して悪いのではと思ったから。
引っ越しとか受験とか、クラブ活動が忙しくなったからとか、正当な理由があればやめられるのにと思ったものです。
そしてその正当な理由である「大学受験」を理由にやっとやめることができたのでした。
習っていた12年か13年の間発表会にも何度も出ましたが、とにかくミスしないことにばかり意識が向き、楽しんで弾けたことは一度もありません。
発表会で親に褒められたことも一度もありません。
習っていて良かったことといえば、中学時代に合唱コンクールでピアノ伴奏をさせてもらったことでしょうか。
クラスにはもっと上手な子がいる中、じゃんけんとかクジで私に決まりました。
3年連続です。
伴奏をしたかったというより、普段とても地味で目立たなかったので、ちょっとだけですが特別な感じがして嬉しかったです。
ミスをしたらみんなに迷惑をかけるので、この時は一生懸命に練習をしました。
そんな感じで、ピアノの思い出があるのですが、
大人になっても何度も夢に出てくるほど、大きなストレスになっていたとは想像しませんでした。
やりたいことを始めるのも勇気がいるかもしれませんが、
やめたいことをやめるのも勇気がいります。
本当はやめたいのに、自分の本心もわからず、ずっと続けていたのですから。
そりゃあストレスで30年以上経っても心のしこりとなって残るでしょう。
いまだにピアノの夢を見てイヤな気分になり、夢であってそんなしんどいも思いはもうしたくないと思い、
当時本当はどうしたかったのか、本心本音、内面を探ってみました。
以下、私が日記に書いた気づきです。
ピアノはさっさとやめたらよかった。
やめるということを親が勝手に決めて、親から先生に言ってほしかった。
「ピアノやめるっていうたで」と言われることを期待していた。
自分が勇気を出さなくて済む状況を望んでいた。
自分からやめるというのは精神的なストレスが大だった。
ストレスを感じることなく、誰かが状況を良くしてくれること(この場合はピアノをやめる)を期待していた。
最初、本当は別の先生に習いたかった。
Nちゃんの習っている先生のところに見学に行ったら、その先生がとても優しくほめ上手だったので、その先生に倣いたかった。緊張することもなさそうで、リラックスして習えそうな感じがした。そうしたら多分自分から練習するようになった。
でも、その先生ところで習いたい、と言えなかった。
ピアノを習いたいと親に言ったら、親同士が仲が良いYちゃんが通っているピアノ教室に行くことになった。
その先生に10年以上習うことになるのだが、その先生はクールな雰囲気なこともあり、緊張するのだ。
イヤな先生ではないけど先生の悪口になるような気がしたし、先生のことを悪く思うこと自体、いけないことなのでは?という思い込みを抱えていた。
ここまで、気づきとして日記の中にメモをしていた部分。
やめたかったけど、自分で言うのは言いにくいから、私の知らないうちに親からやめると勝手に先生に言ってくれたらいいのに、というのが本音だったのですね。
でも当時は親から何度も「ピアノやめたら?」と言われていたにも関わらず、やめるということを自分では言えないため、また親にそれを頼むこともできなかったので、10年以上も習い続けたというわけです。
そして非常な苦しみの中、週に1度のレッスンに通い続けたトラウマが、46歳になった今でも心の中に残っているのです。
子どもながらにしてなんであんなにウソをついて、本音を隠していたのか。
どうしてそうなったのか、やはり育ってきた家庭環境の影響かなと思います。
今年の夏、数年ぶりに実家に帰って気づきましたが、秘密が多いのです、うちの実家は。
大したことを隠しているわけではなく、例えば私は中1からネイティブの先生に英語を習っていましたが、
数年間、父に内緒でした。
母から言わないようにと言われていたからです。
このような細かい秘密など、特に父には内緒にしておけと言われることがなんと多かったことか。
親がまず自分たちの本心本音を分かち合えていない、隠すので、当然子どもも知らないうちに親のコミュニケーションパターンをなぞっているのでしょうね。
怖いことです。
長くなるのでこの話はまた別の機会にしようと思います。
お読みくださりありがとうございました。

