グリーフケアを学んでいるときにある先生が時々おっしゃっていたことです。
愛する人を亡くすのも辛いが、愛していない人を亡くすのも辛い
遺族会などに来られる方のほとんどは愛する人、愛するご家族を亡くし、その悲しみをどうすればいいのか、自分の気持ちをどう立て直せばいいのかという辛いお気持ちを抱えています。
あの時もっとこうすればよかった。
辛すぎて思い出の品を見ることができない。
亡くなったご家族と似たような姿の人を見かけるとどきっとしてしまう。
家族が元気でいる人がうらやましい。
亡くなった人に会いたい、声が聞きたい。
仏壇に話しかけている。
夢に出てきてほしいと願っている。
納骨するにはまだ心の準備ができていない。
ちょうど同じ季節が来ると時間が戻って苦しくなる。
こんなに辛く悲しい気持ちを、他の人はどうやって抱えながら生きているのか聴きたい。
このように、亡くなった人を愛していたからこそそれだけ悲しみも深いといえるでしょう。
心療内科に通っている人も多いですし、食欲や睡眠にも影響があることもとても多いです。
一方、亡くなった相手は家族であっても愛していなかったという場合の悲嘆もすさまじいものがあるようです。
「自分の人生は一体何だったのか」という悲嘆。
昔はもしかし愛情があって家族になったのかもしれません。
しかし、一緒に生活するにつれ、愛情は枯渇し、本心ではもう愛していないのに別れるという決断もできず、体裁のためにずるずると一緒にいる・・・・。
自分が自分として生きる人生が半分失われている状態をずっと続けてきて、そんな中配偶者が亡くなる。
すると自分がこれまで本当の意味で生きてこなかった、そのことがとても苦しく、愛していない人と一緒にいるということが一体誰のためになるのか、なんのためになるのかという問いに問われるのでしょう。
「私の人生一体なんだったの。」と。
愛していなかった配偶者の死によって、「自分の人生を喪失していた」というスピリチュアルペインに直面することになります。
それまでは生きたいように生きてこれなかったという痛みです。
故人に会いたい、寂しいという愛おしさからくる悲嘆とは異なる苦しみですね。
それまでの人生で、我慢せざるを得ないことが多かったり、理不尽な思いや悔しさ、怒りなども心の奥にはあることでしょう。
愛していないにも関らず、その人と一緒にいなければならなかった状況というのは過酷です。
今回は短いですが、ここまで。
読んでくださりありがとうございました。