この記事は複数回のスピリチュアルケアのグループワークや、教育分析、瞑想などといった心の浄化と癒しが進むと、日常の人間関係はどうなるのかといったことを書いています。
私自身、共感力の高いHSPやエンパスでもありますが、そういった方々にも共感していただける内容かと思います。
癒されたら心の状態はどうなる?スピリチュアルケア研修からの体験など
2012年から2年間上智大学グリーフケア研究所で学び、その後は教育分析を数回、臨床スピリチュアルケア協会での研修を複数回受講、学び自体は今も継続中です。
癒されるとはどういう状態をいうのか、私の実感を簡単にまとめます。
・それまで抱いていた価値観、思い込み、ビリーフが一変し、世界観が変わる。
・自分が自分のままでいていい、取り繕わなくても受け止めてもらえる感覚
・怒りや悲しみがあっても、いったん脇における
・自分、他人を大切に思える
・あまりにも大きな悩み苦しみだと思っていたものが、誰かに聴いてもらったことで軽くなり、力が戻ってくる
・正直に言いたいことを伝えても大丈夫という自分と他人への信頼を持てる
・自由度が増す
こんな感じです。
私の場合、それまでの人生観を覆すほどの癒しが起こったのは生死をさまよった時の体験です。
関連ページ:生死をさまよった体験、入院中の神秘体験
心が癒されるというのは、このブログでもたびたび言っている、心にがっつり抱えていて自分を縛っている「ビリーフ」「思い込み」が緩んで開放された状態ともいえるででしょう。
自我やエゴではなく、より自己の本質、たましいに近い状態を感じている状態ともいえるでしょう。
たましいに近い状態なので、「愛」「慈悲」「叡智」など人間の五感を超えたところにある本質に触れると「癒された」感覚が深まります。
これは誰でも常に触れているものであります。
しかし、「ビリーフ」「思い込み」などが心を覆ってしまっている状態ではなかなか気づきにくいのですね。
過去にあったあんなこと、こんなこと。
誰かに言われたあんなこと、こんなこと。
嫌な出来事にとらわれているのは自分自身。
他人ではなく、自分で自分を縛っているに他ならないのですが、その「ビリーフ」「思い込み」「心の傷」「心のブレーキ」を開放していくのがカウンセリングだったり、スピリチュアルケア、グリーフケアと呼ばれているものです。
援助者という他者の力を借りて、心の奥底にある「癒しを求めている部分」に光を当てるのです。
カウンセリングやスピリチュアルケアの研修で、実際に癒されてそれがどう社会生活に影響したのかを述べたいと思います。
社会生活で役に立ったこと
人間関係
いやな人がほとんどいなくなりました。例えば学生時代であれば私のことを「モノ」のように扱う人がいたり、本当は嫌なのに離れられない人がいたり、ずいぶん苦しい思いを体験しました。
癒しが進むにつれ、いやな人がいなくなります。
これは私自身の内面の変化でもあると思います。
以前であったら正直に言いたいことを言えず、ぶつかることを避けていたふしがあり、それがしんどさの原因でもありました。
嫌われたり、どう思われるのかを気にしていたのです。
また私自身が友人なり知人なりを心ある「人」としてではなく、「モノ」として扱ってしまったことも数少ないながらあったかと思います。
その人に対して思いやりを持てなかったり、自分の利益を優先してしまうなどです。
だから私も同じように誰かからそのように扱われるのです。
しかし今では周りの人に対してそのような感覚を持つことはなく、人として大切に接することができていると思います。もちろん限界はありますが、自分なりにできる範囲で誠実に、思いやりを持って関わらせていただいております。
逆に周りの人も私に対してとても親切にしてくれますし、モノではなく、「人」として本当に大切に接してもらってることを実感します。
仕事
天職と呼べるものが見つかりました。
2007年に自分の使命を見る体験をしたものの、それが本当に自分に合っているのかどうかわからず、2012年にグリーフケアを学び始めた際も、心惹かれる活動であることは間違いありませんでしたが、人の話を聴くという活動をしたことがなかったので、向いているのかどうかということは全くわかりませんでした。
2014年に初めてそのような活動をさせていただき「やっぱり合っていたのだ」とやりたいことが明確になりました。グリーフケア・スピリチュアルケアですが、ボランティアベースの活動、お給料をいただく活動の両方を体験しています。
これらに関しては本当に自分にとっての天職だと感じています
しかし他の仕事に関しては役に立たなかったというか、自分の本質があらわになってくる分、世間の価値観と合わなくなるので、困ることも多いです。
困ったこと。エンパス・HSPの人あるあるかもしれません。
人間関係
上智大学グリーフケア研究所に通っていた2012年と2013年。
この頃私の中の光の当たっていなかった部分に取り組むということを行いました。
その後数回この問題には取り組んできていますが、当時は心を深く探ることで一時的にしんどい思いも抱えていました。
感性が敏感になりすぎて、人前で授業をするのが苦痛に感じていました。普段であれは平気なのですが、心が無防備になっているためか「裸で外に出ている感覚」「ちょっとの刺激が実際以上にダメージになる」ような感覚を抱いておりました。
実際に傷ついたということはなかったのですが、心の痛みに取り組んでいる最中というのは、ちょっとしたことで傷つきやすくなっているように思います。
2014年以降はとあるカウンセリングルームの教育分析、臨床スピリチュアルケア協会での研修などを受けています。
人に対して愛を感じることが多くなるにつれ、別れが余計に辛く感じるなどといった苦悩があります。
その時の体調やバイオリズムにもよりますが、家族や友人であったり研修で出会った仲間であったり、現場でお会いした参加者だったり、大切な人に対して「一期一会」「唯一無二の存在」という感覚が強まってしまい、そのような感情を抱くことが幸せでもあり、切なさや寂しさを感じることもあります。
嫌な人はいなくなりましたが、別の困ったこともあります。
共感力の高いHSPやエンパスといった方々は経験があるかと思います。誰かが苦しんでいたとすると、その気持ちをキャッチしてしまうのです。
現場ではこの能力が生かせるので、対話をすることでその人のしんどさが幾分か抜け、楽になる感覚を私も感じるので私自身はしんどさを感じることはほとんどありません。
現場ではいいんです。セッションなりグループワークなり、その人の抱える痛み・苦しみがまるで自分のことのように伝わってきますが、一生懸命対応して、終われば引きずることはないのです。
(これは私の場合であって、中には「共感性疲労」を抱えてしまう援助者もいることでしょう。)
しかし日常生活では別なのです。普段接する人たちの中にしんどさを抱えている人がいたとして、その人がそのしんどさを抱え続けていると、なぜか私にも伝わってきて「しんどい」と感じてしまいます。
他人の感情を拾ってしまい、自分の感情のように感じてしまうのです。
誰からその感情が来ているのかはわからないことが多いです。夜外出して飲みにいって誰かの念を拾うということもあります。出かける前にプロテクションすることを心がけています。
念をキャッチしたとしても「あ、これは私の感情ではないな」と気づくと少しらくになります。
自分もしんどくなるということは、私の中にもその人の感情とリンクする痛みがあるということもあれば、もう解決していることがら、自分には関係ないことがらなのに巻き込まれてしんどいということもあります。
前者の場合は私自身の心の痛み、インナーチャイルドの癒しが進めばらくになります。
後者の場合は「これは誰かの感情だ」ということに気づくこと、その感情を浄化するのは自分の仕事ではないと割り切ることが大事だと思います。
私の体験ですが、その感情を発した人と話し、その人自身がしんどい思いを打ち明けてくれると、私もその人もらくになるということが起こります。
本当に「憑き物が落ちた」ように一瞬でらくになるという体験を何度かしています。
これは私がまだ修行の中途段階ということで、この状態を抜ければ改善されるということはわかります。
今の段階では他人の念をキャッチして「しんどい」という状態に巻き込まれることがしばしばあるのですが、それも徐々に区別ができるようになってきたので、「あ、これは誰かの念だな」と少々のしんどさを感じつつも、放っておいて大丈夫という風に対処ができるようになってきました。
放っておいて大丈夫、というのは、それは私が解決することではないからです。
誰かがしんどい思い、苦しい思いを抱いていたとしても、それを開放するのはその人自身がやることです。
私はそのような人が相談に来た場合に対処すればいいのであって、日常生活で誰かの念をキャッチして、自分のことではないのに自分のことのように巻き込まれ、しんどくなり、その念の発信者をわざわざ探して会話をし、苦しみを引き出し浄化させる・・・・。
確かにこうやることで念をキャッチしてしんどかった私自身もらくになりますが、これは本来私のやることではありません。
HSP、エンパスといった人たちは必要以上に他人の念に振り回され、しんどくなり、自分のエネルギーが枯渇してしまっている人が多いかと思います。
仕事
自分の大事にしている価値観が明確になってくるので、世間の価値観とギャップが生まれます。
それまで苦もなく、それが当たり前と思っていたことに違和感を感じ、それを続けることにものすごく苦痛を感じるようになってきます。
自分の本質を生かしたい、本当に大切にしていることを仕事にしてやっていきたいと強く思うようになり、「違うこと」をするのが苦痛でたまらなくなってきます。
これはまだ中途の段階、私が本当に自分自身を生きるようになれば、解決されることかと思います。自己一致した仕事、本当にやりたいことで生活していけるようになれば、仕事で苦を感じるといったことは無くなるでしょう。
これはスピリチュアルケアやカウンセリングなど関係のない人であっても、今取り組んでいることが前みたいにできなくなった、今の仕事に情熱を感じなくなった、虚しさを感じるようになったなど、何のために生きているのかわからないなど、いわゆる「中年の危機」とも重なります。
心理学のことなどわからない、スピリチュアルケアなど興味がないという人であっても、人間はみなスピリチュアリティを有しています。そのスピリチュアリティのうずきというものはどんな人であっても直面する可能性はあるでしょう。
スピリチュアルケアやカウンセリングなどの訓練で心を探るという人もいれば、日々の暮らしの中で自己探求が進み、それまでの生き方やり方ではもうしんどくてやっていけない、「違うこと」はもうできないという段階に来る人もいます。
誰もが自己の「本質」「たましい」「スピリチュアリティ」に触れ、それが深まると、3次元の目に見えることいわゆる世間一般の価値観で大事とされている「効率重視」「利益重視」といったことから「なんのために生まれてきたのか」「私だからこその人生を生きたい」といったことに重きを置くように変化していくのだと思います。
以上、読んでくださりありがとうございました。
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