「こんな聴き方が良い聴き方」という価値観
カウンセリングと日常生活での会話は目的が違うので、なんでもかんでも「傾聴」する必要もなく、その場の雰囲気を楽しむことを優先していたらカウンセリングで言っているような「深い話」はしない方が良い場合もあります。
そのことを踏まえた上で
日常生活の中で人と話す際に違和感を感じることがあります。
それは私が話している時に途中で話の腰を折られたり、相手側の価値観で返答をされる時です。
そのため、
■表面的な会話に終始してしまい、本質的な話ができず物足りなく感じた
■気持ちを聴いてほしかったのに、私の方に非があるような言い方をされ、打ち明けたことを後悔した
このように感じてしまう原因の一つは、インナーチャイルドの傷です。
子どもの頃からこのような対応をされてきたので、それがまた焼き直し現象として現れ、再体験しているということ。
もう一つは、上記の経験があるため、私の中で潜在的に「人の話はじっくりと聴くべきだ」という価値観が生じているともいえます。
傾聴やカウンセリング、グリーフケア、スピリチュアルケアなどでは
「何かしようとせず、じっくり聴く」
「途中で話の腰を折らない」
「余計なアドバイスはしない」
ということが大事と学びます。
つまり、自分の力で相手を変えようとしないこと、自分の理想を叶えようとしないこと、が大事なのだと。
こういった学びを通して、聴き方について深く知り身に着けてきたこともあり、いわば「良い聴き方」が明確になったわけですね。
ですからそのような聴き方ができない人に対して余計に違和感を感じてしまうのです。
「良い聴き方」が明確になったのと同時に、その人の聴き方のどこが問題か、ということも明確になります。
聴き手側がエゴに巻き込まれ、「良かれと思って」言うことがほとんどであり、それは相手のためではなく、自分のエゴを満たすための利己的な動機からなのですね。
「焦って結果を出そうとして相手のペースを無視した言葉になる」
「相手の気持ちに寄り添うことは二の次で、ただ自分がしゃべって聴いてもらいたいだけ」
ということになります。
深刻な話を聴いてほしい時にはちゃんと聴ける人を選ぶ意識も大切です。
上記のような反応をされると本当に残念ではあると思いますが、相手の反応というのは、実は自分のエゴの反応であることも言えます。
単なる世間話的な会話の中のやり取りで、気にならない場合はスルーしたらいいのですが、深い話の場合は引っかかることもあります。
他人の反応は自分が自分に向けている反応であり、その自分というのも自分に対して色々な思いを抱いていますね。

自分の中のどの部分が強いかによって、相談する相手を決める際にも
エゴ強めの人を選んだり、
たましいの声が強めの人を選んだりと行動も異なるはずです。
例えば「〇〇に挑戦したいけど、私には無理かな」と思っていると、無意識で「ちょっと難しいんじゃないかな」などと反対する人を選んでいることは多いでしょう。
しかし、自分の状態によって相手の反応が変わるので、結局は自分自身の深層心理の中にあるものが映し出されているということ。
自分を責めていたり、否定しているということを、相手が教えてくれているとも言えます。
他人というのは、実は自分の鏡なので、自分なのだと意識すれば、怖がることはありません。
相手の反応を変えようとするのではなく、まずは自分を変えるのが先なのですね。
「自分で自分の気持ちを認め受け入れること」
「話を聴いてもらっていい、受け止めてもらっていいんだと、許可すること」
「こんな聴き方が良い聴き方」という価値観から自由になると
ここまで来るには相当エゴから自由になったということになります。
それは、相手が今本当に望んでいるのはどんな言葉なのか、ということを瞬時にキャッチし、瞬時に反応することだからです。
相当な集中力で相手に焦点を合わせ、目の前の相手の「心の奥の本音」が自分を通して発せられるということです。
当然エゴの声は沈黙。自分を消し、相手になり切る・・・・。
そのような状態になると、アドバイスであれ、励ましであれ、叱責であれ、それは相手に通じるのです。
ケアのトレーニングの際によく言われるのが、「自分でどうにかしようとしない。勝手に出てくる言葉が合っていることが多い」と。
※これはエゴに巻き込まれない訓練を繰り返した結果です。自分を見つめることのない人が「ばあーーーーーーっ」と思いの丈を述べるのはエゴの声だらけだったりします。
なぜなら相手は聴き手を通してご自身の本心本音を聴いているということになるからです。
誰かに相談して、イヤな気分になったという場合はその聴き手自身が自分を満たしたいがために発した言葉によって、イヤな気分になります。相手を拒否したくなったり、自分自身が拒否されたような感覚を抱きます。
しかしエゴから自由になった状態であれば、何を言ってもどんな反応をしても、それは自分の声が他者を通して発せられている感覚なので、素直に受け入れることができるのですね。
また、意見としては受け入れられない場合であっても、それは相手への拒否にはならず、「異なる意見を持っている他者」として受け入れることができるでしょう。
相手の反応から、自分の中の深い部分からの声なのか、または単なる雑念やノイズ的なものなのか、がわかるようになります。
聴き手側のエゴを脇に置く訓練も必要ですが、話す側もどれだけ自分を癒し、自分を受け入れているか、ということも大事なのです。
長くなりました。
今日もお読みくださりありがとうございました。
本質であるたましいの声が強い場合は、安心感を感じますし、自分を信頼できて、他者への信頼も感じていて、気分が軽いです。