肉体の「死」もその一つですが、自我からの解放が起こる時、自我の頑張りが「極」に行く時。
そのような時というのは、大いなる意識・神意識・仏・サムシンググレートといった「超越的存在」と触れる時でもあります。
それが自身の内面で起こる場合もあれば、周りの人が媒体となって起こる場合もあります。
死に近い状況であったり、死ではなくても精神的な苦しみの渦中にいて、自分ではこれ以上どうしようもないという時など、そばにいる誰かを通して、その人との関わりによって、心が癒されたり救われたりするということがあります。
これもまた、自分の心が外の世界と繋がっていて、自他一体ということでもありますね。
誰でも心の奥底には仏性や宇宙意識と繋がっていて、それを自分一人で感じる場合もあれば、外の世界や他者を通して感じる場合もある。
今、パートで認知症を患う人たちのグループホームで介護をしていますが、普通のグループホームとは違い、よそから断られたような重い人たちが入っています。
やはりそこで働く職員の中には菩薩のような人が複数いるのですね。
それはある意味、普通のグループホームに比べて利用者さんが「極」まで行く可能性が高いからとも言えましょう。
それを映し出す媒体である職員さんはやはり研ぎ澄まされていて、個人の自我で対応するというよりも、菩薩のような意識が働いているのが伝わってきます。
と考えると、将来のことを色々考えて不安になったりしますが、その時も必ず救いはあるということですね。「極」までいくとそれが現れる。
今日は短いですがここまで。
読んでくださりありがとうございました。