今回は私自身のことを。
人間の意識構造を簡単に表すと
まず外側から内側に向かって
頭の判断→感情→たましい
となっていますが、私の場合たましいの部分は「図太い」「ぶれない」「スパルタ」」「鬼教官」という言葉がしっくりくるような気がします。
特にライフワークや自分の興味のある仕事や勉強に関してはとことんのめり込むタイプですし、そうしたいのですね。
家庭があるので家のこともしなければならないので欲求不満に感じています、本当はもっとガツガツとやりたいし、猪突猛進タイプなので。
これが私のたましいの部分です。
次に感情ですが、気質的にはHSPやエンパスです。
共感力が強い。
たましいの部分では図太いのですが、感性は敏感。
子どもの頃に恥ずかしいからと自分で抑えてしまっていましたが、本当はめちゃくちゃ泣き虫なのです。
いくつか挙げて見ようと思います。
映画やアニメを観たり誰かの話を聴いて感情が揺れるとすぐに涙が出てきます。
忘れられないのが小1の夏休みに観た「ごんぎつね」。
地元の公民館にたくさんの小学生が観にきていましたが、ごんぎつねの映画が始まってすぐのシーンですでに涙が出てきてしまい、「どうして涙が出るのだろう?恥ずかしい」と必死で我慢していたのです。
周りを見ても笑いながら見ている子が多くて(大人になってごんぎつねを観ると笑えるシーンもあるということに気づきました)、映画を観て感動するという現象すら初めての経験にとまどいました。
泣いているのは私だけでしたが、今でも感動するのでもしかしたら同じように泣くのが恥ずかしくて我慢している子もいたのかもしれません。
この時は我慢したくても勝手に涙が出てきてしまったのですが、子どもの頃すでに自分の殻に閉じこもる性格だったため、人前で泣くことはほとんどありませんでした。
自分で言いますが敏感で繊細、優しい(意地悪な気持ちもいっぱいあったのでいつも優しいわけではないけど)から泣くのですが、そんな自分を隠したかったのです。
そして自分が辛いときには本当はわんわん泣いて寄り添ってもらいたかったし、そういう自分を受け入れてほしかったと思うのですが、人と心の距離が近づくのが怖かったのでしょうね。
心を許して泣けない、問題が起きても一人で解決してしまうタイプでした。
結果的に「頭の判断」優先でその後生きることになりました。
それでも、頭の判断というのはいわば仮面。
仮面の奥の心はめちゃくちゃ揺れてはいるのです。
そんな「感性」をさらけ出していいんだ、という気づきがあったのが28歳の時であり、スピリチュアルケアでもありました。
2018年に受けたスピリチュアルケアの研修では、ある先生の講義で「傷ついた癒し人 ヘンリー・ナウエン」のことが紹介された際には自分の内面と重なる部分がうずいて号泣。
次の年には上智大学グリーフケア研究所主催の講師研修があり、その際の「祈りの黙想」の時間、母のことを色々と思い出して感謝の念があふれて一人だけ号泣。
当時すでに瞑想の習慣があり、瞑想で泣いたことなどなかったのでハンカチを持たずに部屋を移動。
「黙想」なので静かにしないといけないのに、と思いつつも涙を抑えることができませんでした。
他にもいっぱいあります・・・。
ちょっとした感情の揺れに敏感なことが、ケアの場面で生かせるようになりました。
人の感情の揺れに敏感なので、それを察知して、しっかりと直面する方が良いのか、それとも相手はそれを望んでいないのか、知らんふりをしてスルーする方がいいのか、など都度判断しています。
子どもの頃は恥ずかしいと思っていたことが今役に立つとは不思議なもんです。
でも、たましいの部分は「図太い」ので私はものすごく強いんだろうなと思います。
だからやりたいことがあったら絶対に諦めないし、自分の可能性も人の可能性も信じることができるのです。
以上自分の話でした。
今日もお読みくださりありがとうございました。