義理の兄が亡くなりました。
夫の姉の旦那さんです。
1か月ほど入院していて、治療後回復傾向にあったのに急変。
病院の面会が禁止だったため、1か月間会うことができませんでした。
夜遅くに危篤状態となり、翌朝やっと会えましたが変わり果てた姿にショックを受けました。
私たちが訪れた後も、夫の兄弟姉妹全員が、入れ代わり立ち代わり訪れたそうです。
コロナ禍以降、親戚で集まる機会はめっきり少なくなりました。
それまでは年に3回の法事や、義母の誕生日や母の日、親戚が多いので結婚式も複数回ありました。
子どもの運動会や、実家で食事したり外食したり、数年に1回旅行やキャンプなど、家族の行事が多かったのです。
結婚してから私の実家との付き合いよりも、夫の実家との付き合いの方が濃いくらい。
夫の兄弟は元々結束が強く、良いことも悪いこともはっきり言うので、ぶつかることもありました。
もめごと、ケンカもたくさんありましたが、誰かが困っていたらすぐに動く人たちです。
義兄は危篤となった日の二日後に亡くなりました。
最期は家で過ごさせてあげたいという義姉の希望で、義兄は家に。
夫と私も会いに行き、同じように最期の別れの挨拶をしに来た義兄のお兄さん夫婦や、姪っ子(義兄夫婦の娘)の会社の同僚の方たちとも少し言葉を交わしました。
プライベートなことなので、親戚や家族の個人情報など詳細は書くことは控えますが、今回色々と感じたこと、私自身の内面の変容があったのでそのことについて書いてみようと思います。
大切な気づきは、亡くなった義兄さんからの贈り物のような気がして・・・・。
義姉の家を訪れ、義兄の安らかな顔を見た後、帰る車の中で、モヤモヤしたのです。
「最期の時、義兄さんはたくさんの人に惜しまれ、悲しまれ・・・・・。私の最期はどうなんだろうか。そんな生き方ができているのだろうか」
私自身の在り方について、すごく考えさせられたというか。
もちろん、私が死んだら悲しんでくれる人たちはいる。
何人の人が来てくれるかという人数ではないし、数は少なくても、心のこもった深い付き合いができたかどうか、だとは頭では思うのですが。
私の時はきっと少ないやろうな、と思ったりして。
でも義兄さんは「それでええよ~。」と言ってくれているような・・・・。
義兄さんは本当に人格者というか、穏やかでありながら、いつもご機嫌でふざけているのですよね。
面白いことを言って周囲を笑わせ、和ましてくれるのです。
誰に対してもオープンマインドでウェルカム。
おちゃらけて壁を作らないので、相手は気を遣わないでいられますし、自然体でいられるのですよね。
義兄の娘である姪っ子の友人や、会社の同僚たちも慕っているほど。
これには驚きました。
ユーモアの中には深い優しさがあり、いつも人に「与えている」。
私が自分自身に対してモヤモヤした気持ちを感じたのは、過去の未完結な感情、自己否定をしていた気持ちが、まだちょっと残っているかも、と思ったから。
心のことに興味を持ち、自分の心に向き合うようになって、とてもとても生きやすくなりました。
でも、まだちょっと自分を愛し切れていないところがあるというか。
過去、子ども時代、とても内気でおとなしく、
それを直さないといけないと思い、生きづらかったことを思い出しました。
天真爛漫な子どもらしさ全開のクラスメイトがうらやましく、何を話していいかわからない自分。
家ではそれなりに活発で(といってもよその子と比べたら慎重でおとなし目だが、自由にふざけたりはできた。体を動かすよりもままごとが好きでした。)
保育園や学校でも家にいる時みたいに活発になるよう親に言われ、年長の時には今日は誰かと話せたか、遊べたかを訊かれたこともありました。
「〇〇ちゃんと友達になりたいな」と思っても、声をかけることすらできず。
憧れの◇◇ちゃんと席が近くなっても、自分から話しかけることができない。
絵を描くのが好きで特にお姫様や可愛い女の子を家にいる時や仲良しの子といるとき時は描けても、保育園や学校では描けない。私なんかがお姫様や可愛い女の子を描いてはいけないと思っていました。
ちょっと気になる男子ができても、話しかけるなんてもってのほか。
誰にもわからないように隠し通し・・・。
成長するにつれ積極性は出てきて、普通に過ごせることも増えてきましたが。
それでも会話でポンポンと言葉が出るタイプではありません。
会話の場面では言いたいことがないのではなく、気持ちを言葉にするまでに時間がかかる。
気持ちとぴったりな言葉を探しているうちに話題が変わってしまって追いつけない。
結果、あまり話せなくなる。
おとなしいことを直そうとして、気持ちがこもらないどうでもいいことを話そうとすると、それは自己不一致なのでとてもしんどい。
仲の良い友達とはなんでも正直に話せて夢中になって遊べたのですが。
それほどでもない友達といるのは、本当はその遊びはイヤなのに楽しいフリをして遊ぶことになり、疲れるのですよね。
ふざけたりしたくても、気を許した友達でないと恥ずかしくてできないのです。
ここまでお読みになられた方は、「気が優しくて繊細な子だったんだな」と思うかもしれませんね。
でも他にも思い出したことがあります。
私は自分がおとなしく、良い子に見えるのを利用し、ばれないことが分かっていたので、陰で誰かをいじめることもあったのです。
私から行動をするのではなく、友達に知恵を貸していた。
物を隠したりという嫌がらせ等。
暴力や暴言というわかりやすい形でなく、陰でやるのです。
行き過ぎないように注意をしつつ。
その子が嫌いというより、自分のうっぷん晴らし。遊び半分でやっていた時期がありました。
振り返って、自分にもイヤな部分があったな、と思いました。
幼少期から生きづらかったので、そのはけ口として、いやがらせという行動に現れたのでしょうね。
これもまあ、心の痛みなのですが、今回掘り下げる気づきではなくこれに関しては別の機会に。
気づきのメイン、もっと大きな部分は後に書く気づきにあります。
そんな風に、義兄の死がきっかけで、子ども時代のことを思い出しました。
「あれ?私まだ自分の性格のこと気にしてるんかな?」
私はとてもじゃないけど、義兄さんのように、多くの人に明るく話しかけたり、楽しませたりすることはできない。
そのことに対してまだ自己否定してる?
いや、そうではないよね。
今は自分のままで、居心地のいい環境に居られてる。
このモヤモヤは、私は私をもっと愛そうとしているからのように感じる。
義兄さんが、「それでええよ~、自分を愛したらええんやで~。」と言ってくれてるような。
でもまだちょっと自分を否定している気持ちが消えないのはなぜ?
どの部分に引っかかるんだろう?
??????
??????
おとなしい自分、内向的な自分は大人になっても変わらないけど、今は困っていない・・・・。
生きづらさが消えて、とても生きやすくなった。性格は変わらないのに。
でもこのモヤモヤは一体何なのか?
そう、内向的な性格は関係ない。
この引っかかりはもしかしたら
「心がそこにいるのか、いないのか」
という私の態度に対して感じているものではないか。
20数年間、何度も何度も家族の行事で共に時間を過ごした時、義兄さんはいつも「いた」のです。
毎回参加していたという意味ではなく、場を共にした時はいつも「心がそこにいた」という意味。
でも私はどうだろうかと。
私の葬儀で悲しんでくれる人は少ないだろうな、と感じた理由の一つ。
「私は誰かといる時、心も一緒にその人といるだろうか」
というか「心がそこにいなければならない」と思っている自分に気づいた。
ひとまずここで一休み。
これで終わりではありません。
ここからさらに気づきは展開していくのですが、
長くなるので、次回に続きます。
お読みくださりありがとうございました。