誰かがものすごく過酷で辛い体験をしているのを知った後、自分の悲しみや苦しみがその人のものより軽いのではないか、と思ってしまうことはないでしょうか?
また、「あの人に比べたらまだ良い方よ」と言われることを恐れて、本当に聴いてほしいことが言えなかったり。
今回の内容は私にも少し当てはまる部分があります。
それぞれの身に起こった出来事は異なりますが、両方とも辛く悲しいことに変わりはありません。
でも、比べてしまう。
出来事そのものも辛いのですが、
「言えない」
「悲しみを認めてもらえないのではないか」
「自分を出せない」
「人を頼って涙を流したいのにそれができない」
こういったことがとても辛く、孤独を深めます。
また、逆もあるかもしれません。
「私の方が、耳にした時のインパクトが強い喪失体験をしている。
悲しみ苦しみは比べるものではないけれど、私の体験を知ったせいで、他の人が本当に言いたいことを言えなくなるのではないか?
私も聴いてほしいけど、他の人が話せなくなったら申し訳ない。」
喪失そのものもとても辛いですが、「言えない」「言っていいと思えない」のは両者とも、それまで培ってきた幼少期からのコミュニケーションのパターンが大いに影響している気がします。
以前コミュニケーション講座の講師をしていました。
大きく3パターンあります。
「攻撃型」
「自己犠牲型」
「良好型」
攻撃型は、相手に非があると思いがちな傾向。相手がどう受け取るか考えるよりも、自分の言いたいことを言う。
自己犠牲型は自分に非があると思いがちな傾向。相手がどう思うかが大事で、そのためには自分を犠牲にすることが多い。
良好型は、自分も相手も心地よくいられるコミュニケーションができる。主張するところは主張でき、相手のことも大事にできる。
攻撃と自己犠牲が混ざっていることもありますね。
私は昔は自己犠牲型でした。
そして、我慢がつのり溜まってくると攻撃型になったり。
普段のコミュニケーションパターンが、グリーフケアの場でも現れてきますよね。
しかも、語る内容がその人にとってとても大事なことについてなので、一層在り方が立ち現れるというか。
そのご自身の在り方、態度によって「言いたいけど言えない」「抑えてしまう」「悲しみとして認められない」「本当は人と繋がりたい」等など、
自分と向き合うことになるのですよね。
今日もお読みくださりありがとうございました。