心のケアやカウンセリング、悩み相談などを探している時、本当にここに相談して、カウンセラーさんは真剣に考えてくれるだろうか。
そんな思いを抱いたことはありませんか。
私自身、悩みがあっても以前は誰かに相談するという発想すら抱かない人間でした。
それはどうしてなのか子ども時代を振り返ってみました。
大人に相談することによって状況が悪化した体験があるから
何か悩みを抱えていて、誰かに聴いてもらったら解決はできなくても心が軽くなります。
私も思い出してみると学生時代はよく友人と話してしんどかった気持ちがらくになったことが何度もあります。
しかし結婚してからは誰かに話を聴いてもらおうという発想自体、浮かばなかったように思います。
それはどうしてなのかと考えてみました。
若くして結婚、出産、子育てと、周りより早かったこともあり、友人たちと疎遠になってしまったことが一つ挙げられます。
それまでは何かあると相談していたのですが、例えば3人目の子を亡くした際など、誰かに話を聴いてもらうという発想にも乏しかったです。
カウンセラーなどの専門家に相談するという発想もなかったように思います。
それは「誰も話を聴いてくれないんじゃないか」と思っていたからということに気が付きました。
実際にそれまでの人生で、友人以外の誰かに相談すること自体が稀なことではあったのです。
具合が悪くなって病院に行った時なども、「顔色が良いから心配することない」などと言われ、それ以上何もいう気が起きなくなったこともありました。
誰かが真剣に私の話に耳を傾けてくれるということもほとんどありませんでしたし、大人に相談することで結果的に私が貧乏くじを引かされたような体験で絶望に陥ったこともあります。詳しく書くといつの誰の話か個人が特定されるので控えますが、言葉の表面だけを捉えられ、実際は耐えに耐えていたにも関わらず、逆にしっかりしている子、問題に対処できる子だと思われてしまったのですね。
誰かに話したり相談することによって、逆に自分が荷物を背負うことになってしまったのです。
一度このような絶望的な体験をすると人に対して不信感が募ります。
誰にも頼れない。
頼ると逆に自分がそれまで以上の我慢を強いられる。
人と比べられて、大丈夫だと思われ放っておかれる。
やってほしくない余計なおせっかいをされて、状況がさらに悪化する。
一体なにが起こっているのか
逃げているのでしょう。
聴く側の人間が私と向き合うのが怖くなり、無理やり解決させようと焦って行動してしまうのだと思います。
相談する側の語る話の内容を受け止めきれないため、どうにか解決しなければと思い、自分の価値観の範囲の中で解決策を探すのです。
(よく言われることですが、この時もそれと同じく、解決策を出すよりも、ただただ話に共感してくれたら、自分で答えを見つけられたのではないかと思います。)
第三者から見ると一見問題は解決されたかのように見えるものの、当事者にとってはむしろ悪化しているということがあり、世間的にはOKでも、当事者の感情がついていかないという場合が多くみられるのではないでしょうか。
相談者の思いや価値観に沿ったものではないため、結果的に精神的に余計しんどさを抱えることになるのではないかと思います。
社会の価値観にどっぷり染まっている人に相談しても、その枠に当てはめた「正解」を押し付けられることが多いのです。
このような体験があったので、私自身、誰か専門家に相談するという発想がなかったわけですね。
(近くに状況のよく似た友人がいれば色々と相談したのかもしれませんが・・・。)
なぜカウンセリングや相談に行こうと思えなかったのか、
結論としては、昔の体験から、聴き手の思い込みや聴き手の理想に当てはめて対応されるのではないかという恐れがあったから。
聴く側の人間は自分の抱いている価値観、理想、相手に対する期待などから自由になることが大切ということです。
相談をする側としては、問題の解決はできなくても、自分を一人の人間として、親身になって聴いてくれた、まるで自分のことのように真剣に向き合ってくれた、という態度だけでも救われることがあるでしょう。
場合によってはそちらの体験の方が、問題解決そのものよりも、その人の生きていく力になることもあるはずです。
今日も読んでくださりありがとうございました。