遺族会でスタッフとして話を聴かせていただいています。
参加者のことをここで書くことはできませんが、ケア提供者としてどんな言葉をかけたらいいのかいつも悩みます。
自分で考えた言葉はその場にそぐわないこともあります。
ただそこにいさせてもらう、ということしかできません。
私は分かち合いの会が始まる前に、遺族の方たちにとって少しでも安らぐことのできる時間になるようにと仏様に助けをお願いしています。(日々の瞑想の際にも仏様にお祈りしてからするようにしています。どこかの宗教団体に属しているのではなく、神様でも仏様でも宇宙でも何でもいいのですが、実家が仏教だったのでとりあえず仏様ということになっています。)
いつになったらこの苦しみが癒えるのか、らくになるのかと多くの方は思います。
死別の悲しみはあまりに深く、解決策がありません。
それだけあなたにとって愛した人、大切な人が亡くなったのです。
人生で最も辛い日々を送ってらっしゃるかもしれません。
しかし、一つ言えるのはそんな時でもあなたを支える存在は必ずいるということです。
それが誰なのかはわかりませんが、必ず近くにいます。
家族や友人かもしれませんし、ひょっとすると本に書かれてある言葉や歌のメッセージかもしれません。
どのような形で、どのような関りになるのかは人によって異なりますが、
人間一人ひとりに、神様、仏様、あるいは宇宙の愛・慈悲が絶えず注がれています。
はっきりと明確にそれが感じられれば苦労はしませんが、
思わぬところでそういった存在の働きかけ、助けを感じることがあります。
感性を研ぎ澄ませるとより感じるようになります。
そうはいっても、自分の苦しみでいっぱいいっぱいになっている時はとてもそんなこと信じられません。
辛いときは、神も仏もあるもんか、いたらどうしてこんなことが起こるんだと怒りにかられることもあります。
私もそうです。こうやって書いておきながら、また自分に起こった奇跡的な出来事やぎりぎりの状況から事態が好転したことなどを思い出しても、現在の状況に心をとらわれ、本当に神や仏、大いなるもの、宇宙意識というものが存在していて、自分を支えていてくれるのか、嘘ではないかと疑う心もまだあります。
そのような気持ちも、感じるままありのまま、話せる人に話せたらいいですね。
人間の世界で「不幸」だと見なされることが、神様、仏様の次元では見方が異なるようです。
人間の目では真実についてはほとんど何もわからないということでしょう。
しかし、その真実の世界は「平安」そのもの。
その時は感じられないかもしれませんが、人生どん底の時にこそ支えとなってくれる人と出会ったり、自分を支えてくれるものとの出会いがあります。
信じられないかもしれませんが、私の場合も月日が経って振り返ってみると本当にそうだったんだと気づきました。
複数の出来事がそうであったと思います。
これは誰にでも当てはまることです。
辛いさなかで見つけるのは難しいかもしれませんがそうなっています。
私も自分の生命が危うくなった際、普段の意識レベルとは異なる意識を体験し、神様や仏様といった次元の存在を確かに感じました。
そこで感じたのは「人生に不幸はない」ということ。通常の意識に戻れば、やはり辛い苦しいと感じてはしまいましたが、そのような「絶対大丈夫」「真実の次元」があるのだと実感しました。
亡くなった人は一足早く、そのような存在との出会いを体験して幸せで平安なところにいるでしょう。
といっても、この信じる気持ちというのは自分の心が弱るとどうしても揺らいでしまいます。私の場合、上記のようなことを思い出し、色々な本から「証拠集め」をし、自分のいのちを何のために使いたいかを意識することを、毎日毎日継続しているだけです。
上智大学グリーフケア研究所の高木慶子先生も胸を熱くしてこのことを語っていらっしゃいます。
上智の考えがもともと「神ありき」なので、キリスト教、仏教、神道ほか宗教に限らずそのような存在がいて、人間をいつも支えていると。
「人間」として生きている時はそれが感じられないかもしれない。
しかし人間レベルでは考えられないような想像できないような大きな大きな存在によっていつも愛され、守られています。
どんなに辛く、苦しく、みじめだったとしても、そのような存在に一人残らずちゃんと愛されています。
どんなことが起こっても、真実の世界では「大丈夫」なのです。
今日も読んでくださりありがとうございました。