本当は断りたいのに良い人と思われたいがために無理して引き受け、疲れてしまう。
周りの空気を読んで「私がやらなきゃ」と背負い、いつも自己犠牲を強いられている。
いい加減もうやめたい・・・。こんな風に感じている人は多いのではないでしょうか。
私の体験ですが、死に直面して以来自分の人生で何をしたいかが明確になりました。
また片付け作業を通して自分の持ち物もかなり少なくし、余計なノイズを減らしたことも本当にやりたいことにエネルギーを注ぐ上で役に立っています。
自分を生かさない努力はしないほうがいい
「人生無駄なことはない。」
これは本当に真実ですが、だからといってあれもこれも手を出し、自分を犠牲にして他人の言うことに従い、本心とは異なる偽りの振る舞い、取り繕った人生を長く続けても後悔するだけ。
それも無駄ではないといえばその通り。もし来世があるのであれば来世への教訓となる。
しかし、今のあなたとしての人生は今だけ。
あなただからこその強み、あなただからこそ自分も満たされて他者にも喜ばれるギフトがある。
そのギフトを最大限生かして生きていくことが自他ともに満たされる道。
そのギフトを生かすプロセスの中では当然、嫌なこと、苦手なことにも取り組む必要が出てくる。
「これも自分の人生を生きるため」という思いがあれば少々の困難は乗り越えていける。
でも自分の本心からではなく他人の期待に応える生き方をしていると何が幸せで自分を満たしてくれるものなのかがわからなくなってくる。
特に空気読みすぎな人、いい人、嫌われたくない人というのは自分を犠牲にしがち。
単に五感を刺激するような気晴らしや、ちょっといいなと思った洋服などにお金を使い、一時的に満たされた気にななっても心の深いところではむなしさを感じてしまう・・・・。
我慢。自分を犠牲にして他人に期待に応えるための努力
これはいらない。
我慢はしなくていい。
- こういう能力が仕事で求められているから〇〇の資格を取らなくては。
- こういうスキルを持っていないと取り残されるから休み返上で頑張る。
やりたくもない、好きでもない、得意でもない、何より自分が本当に進んでいきたい道とは全く関係のない努力。
これはするだけ無駄。
一つクリアしたらまたもう一つ、同じような状況がやってきてまたやりたくない努力を強いられる。
やってもやっても終わらない。
また頑張らないといけない。
いつまで経っても「外の基準」に自分を合わせるということから逃れられない。
「私はもっと努力して社会に適応しなければいけない。足らないところをちゃんと足さないといけない。」
どこかで気づいてやめないといつまでも「足らない」→「努力」→「足らない」→「努力」が続いていく。
そして人によっては心身ともに疲れ果てて病気になったりする。
疲弊の中ただ生きている。死んでないだけ。
あなたはもっと自分を生かしていい。気づいた後、努力してきたことはちゃんとスキルとして生かすことができる
やってもやっても終わらないループ。
自分の情熱や喜びからではなく、強制的に努力をしている状態。
努力して能力も報酬も手に入れているはずなのに満たされないのはなぜなのか。
このような状態に対してちゃんとおかしいと気づく時が来る。
この「空気読みすぎ状態」をおかしいと気づいて、自分に向き合い、ちょっとずつ内面が変わっていくと周りの現実も変わっていく。
時間はかかるかもしれないけど、自分が本当にやりたいことを見つけられるかもしれない。
もっと満たされることが見つかるかもしれない。
それが見つかったらちょっとずつ取り組んでみる。
続けているとちょっとずつ形になっていく。
すると不思議なことに以前「足らない」→「努力」の状態で頑張って身に着けたスキルがちゃんと「スキルとして」好きなことをやる上で役に立つということが出てくる。
身に着けた能力そのものでなくても、努力するうえで工夫したことなどはちゃんと次に生きてくる。
生き方の軸が「他人」「社会」から「自分」になると前は振り回されていたことにも、今度はちゃんと自分が主導権を持って「使う」ことができるようになる。
以上、努力はその動機や見ている先によって、自分を生かすものにも生かさないものにもなるという話でした。
読んでくださりありがとうございました。