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どんな聴き手、相談員を選べばいい?「ケア提供者が人を救う」のではない。

 「ケア提供者が人を救う」のではない

このブログには「ケア提供者」という言葉を使って「カウンセラー」「聴き手」「相談員」「スピリチュアルケア師」「臨床宗教師」「セラピスト」などのことを指しておりますが、ケア提供者」はケアを提供しているわけではないということを今回は言いたいと思います。

「ケア提供者」という言葉を使うのは不本意なのですが、それ以外の言葉がなかなか見つからず、仕方なく使っておりますことをご理解いただければと思います。

後ほど説明しますがケア提供者はケアを提供しているわけではありません。

「ケア提供者が人を救う」のではないという意味について述べたいと思います。

「悩みを抱えた相談者がカウンセラーなどに話を聴いてもらうことで、心がらくになりその後の人生を生きていけるようになる」・・・

それってケア提供者に人を癒す力があるってことでしょう?

カウンセラーが悩みを抱えた人を救ったということではないの?

カウンセラーが何か心に響くような言葉を言ったり、そのような対応をしたからその人は心がらくになったということではないの?

このようなイメージを持たれる方がほとんどだと思います。

確かに、ケア提供者の働きかけが影響していることは間違いないのですが、上記の認識では

「ケア提供者は癒す人」

「相談者は癒してもらう人」

のように、癒しの力があるのはあたかもケア提供者側で、相談者は助けてもらう人、力のない人というような印象です。

実際はどうなのでしょうか。

相談者側としても、辛い心の内を聴いてもらい、癒されたという体験があると「カウンセラーの先生のおかげで癒されました。救われました。」という実感を持つこともあります。

カウンセラー側としても「私の力でこの人は回復した」と感じることもあるでしょう。

 

しかし本当の意味で人が癒されるのは「当人の中で」すでに癒しの動きがあり、それが表出するプロセスにたまたま居合わせたのがケア提供者ということになります。

外の世界は心の中の反映。内面が外の世界に現れる。

たびたびお伝えしておりますが、外の世界というのは自分の内面の映し出しとも言えます。

自分が自分のことをどう扱っているかは、他者の言動を通して現れます。

他者から悪く言われ、心が傷ついたという体験をお持ちであれば、それは自分が自分を傷つけているということになります。

自分のことを大切に思っていれば、同じようなことを他者から言われても傷つくということはありません。

潜在的に自分でも自覚の及ばないところで、自分を傷つけている場合、そのような他者の振る舞いを通して、結果傷つくということが起こります。

これと同じことが「癒し」「気づき」「ケア」といった場面でも起こるということです。

当人の中で癒しや気づきの種が発芽し、花が咲こうとしているタイミングで、「ケア提供者」に出会うということです。

こちらから「この人と癒したいからこういう言葉を掛けよう、ああいう言葉を掛けよう」と思っても、それが功を奏すとは限りません。

言葉で説明するのは難しいのですが、「何か役に立つことをしよう」というdoingの意識で、「私が何か働きかけよう」という動機が元の行為はあまり役に立たないでしょう。

それよりも、「私が何かしよう」というdoingの意識ではなく、「ただただ「我」に引っ張られないようにして、できるだけ「無」に近い状態で目の前のその人自身を感じる、ただ一緒にいるという「beingの意識」でおおいなるものにゆだねた意識状態でいることが、目の前の人の本来の力を引き出すのではないかと感じております。

私たちケア提供者は「生死の場」の近くにいる相談者、話し手の心の内に触れる仕事をしています。

その心の内とは、考えて考えて考えて、それでもぴったりの答えが見つからず、また考えて考えて、「ちょっとらくになりそうな気づきを得られた」と思っても、それもまた真の意味の癒しにはつながらず、一時の気休めだったとまた苦しみの中に戻され、一体どうしていいのかとまたぐるぐるぐるぐる思考に巻き込まれ、解決策が見つからず、どうしようもなくなった、そのプロセスの中で、ある人は友人の言葉に、ある人は本の中の言葉に、ある人はケア提供者の言葉に、一筋の光を見つけるのだと思います。

光を見つけられる人、もっと長い間自己問答が続く人、さまざまですが、お一人おひとりが自身の心の深いところに入っていく作業をしています。

苦しく、時には逃げたくなるような作業でもあり、たとえその時一時的にその作業から距離を置いたとしても、ある時また向き合わざるを得なくなるのがこの作業、終わらせない限り追ってくるのです。

誰かに代わってもらうことはできず、人類だれもが生きている限り負っていくものでもあると思います。

第三者から見て「あの人は楽に生きていそう」という印象を持つこともあるでしょうが、人それぞれ、その人にとって「ちょうどいい課題」が与えられ、それなりに辛い思いや苦しい思いを得て、自分自身で納得のいく答えを見つける。

答えが見つからない場合は「見つからないこと、それが答え」としてやっていくことになるでしょう。

そんな中見つかった答えや気づきというのは、自己の深いところからのものです。

その心の奥の深い部分を、鏡のように映しだすのが「聴き手」「ケア提供者」であり、ケア提供者自身は一見「なにもしていない」ようには見えます。

しかしケア提供者は「思い込みや偏見、期待、自身を縛っている価値観などのビリーフ」から自由になり、感性を研ぎ澄ましていないと、目の前の人の心の深いところを映し出すということは不可能です。

ケア提供者自身も、普段からいかに「ビリーフから自由になってること」が大切かが問われますし、それが同時に「目の前の話し手」の最も深い心のうちを映し出す条件ともなりうるわけです。

ケア提供者の反応を通して、自分自身の心のうちが映しだされ、「ああそうだったのか」という気づきに至るわけですが、それはすでに「ご自身の中で気づきや癒しの花が咲きかけていて、あと少しというところをちょっとお手伝いしたのがケア提供者」ということにすぎないのです。

たまたまご本人に「気づきや癒し」が起こるタイミングが来ていて、それはその人自身が内面を追求した結果でもありますが、そこに居合わせたのが「ケア提供者」ということになります。

ですので、「私が何かしてあげた」という意識でいるのはちょっと違って、ケア提供者の普段からの自己研鑽はもちろん大切でそれがあってこそのものでもありますが、癒しや気づきのプロセスはあくまで「本人の力」「本人と大いなるものの力があってこそ」といえましょう。

ケア提供者は「媒体」のようなものですね。その「媒体」でいようと思えば自身をビリーフから自由でいられるようにしないといけないので大変なトレーニングが必須ではあります。

「私が救う」「私が癒す」・・・・こういうこと言ってる所はその真意を見極めることが大事かも

というわけで、癒しや気づき、その後の人生を生き抜いていく力というのは、相談者側がちゃんと持っているものなのです。

ケア提供者が与えるものではなく、相談者側にちゃんと力があって、今はしんどいかもしれないけれど、この人はいずれこの苦しみ悲しみと折り合いがついて、時間はかかるかもしれないけれど生きていく力がちゃんと備わっている、絶対大丈夫という「信頼」を抱けるかどうかが大切ではないでしょうか。

カウンセリングやヒーリング、スピリチュアルといった看板を掲げて商売をしているところが多いですが、中には「私が癒す」「私が救う」という表現をして相談者を集めている所があります。

HPやパンフレットなど、その真意をちゃんと読み取ることも大切ですね。

同じ表現をしていても、本当に相談者の力を信じているところ、そうでないところ、言葉の裏にある本意を感じ取ることです。

ケア提供者側の立場が上で、相談者が下というニュアンスを感じるのであれば、そこはちょっと問題ありかもしれません。

回復する力を持っているのは「相談者側」であり、ケア提供者が与えるものではないからです。

「私のところに通えば良くなる、人生うまく回っていく」よほど自信のある所はこういった表現をして、相談者側に安心を与えるのかもしれませんが、それはあくまで「相談者側の力を信頼し、引っ込んでしまっている力を引き出す」ということを前提にしている場合です。

それがちゃんと伝わってくるのであれば信頼して良いでしょう。

しかし、相談者の中にちゃんと力があるということを本心では認めておらず、ただただ依存させて繰り返し通わせ、毎回甘い言葉を言って結果依存させてお金を取り続けるというところもありますので、見極めが重要です。

ケア提供者に対してちょっとでも違和感を感じるようなことがあれば、ご自身のその直感を信じてください。

この記事の冒頭にも書いておりますが、「心の中が外の世界に反映している」ということで、ある人にとってはそこが癒しでありパワーを与えてもらった大切な場所なのかもしれませんが、あなたにとってそれが当てはまるかどうかはまた別です。

ある人にとって「癒し」となってもあなたにとってそれは「傷つく体験」となることもあり、それはその外部の人なりケア提供者なりを通して、あなたの心の中のどういった要素が表出するかによって異なります。

違和感を感じたという時点で、「癒しや気づきとは異なる異質なもの」が表出するような関係性であると、感性が訴えているのかもしれません。

心が苦しい時、どう生きていっていいかわからない時、話を聴いてくれる人を求めますが、そのような危機的状況にあるときだからこそ、ご自身の感性にぴったりくるような相手を求め続けてください

必ず出会えるでしょう。

読んでくださりありがとうございました。

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