書きたいことはたくさんあるのに追いつけないでいます。
みなさまご機嫌いかがですか。
最近ぜひこのことについて書かねば、と思っているのが、
「霊的な憑依」について。
憑依が起きてもなかなか気づきにくいものですが、
「自分の苦しみ」
「自分のしんどさ」
と感じているその感情、その体調、もしかしたら外からの影響かもしれません。
そして、これは誰にでも起こりうることで・・・。
自我の境界が少し破れるというか、自我が揺らいだ時に、そういうのが入ってきやすい。
虐待を受けたりして大きく傷つく体験もそうだし、日々の人間関係のストレスなども。
同じく、宗教的な修行などで自我の揺さぶりがあった際も入ってきやすいです。
どんなものが入ってくるかは本人次第です。
例えば、自分を越えた人格者のような存在が入ってくることもありますし、
逆に低級霊や悪霊に狙われることもあります。
人生が乗っ取られ、狂わされ、まともな人間生活ができなくなることもあります。
宗教的な修行をし、ある程度の段階までいくと、その功徳を狙って邪悪な存在に狙われることもあります。
これは真剣に考えなければならない段階に私たちは来ているのではないかと思うのです。
鎌田東二先生もこんな本を出しています。
長くなりそうなテーマなので、今後ちゃんと別記事で書いていくつもりです。
さて、今回書こうと思ったのは、「愛の心でいられない時」について。
愛の心というのは
平安
信頼
勇気
慈愛
希望
楽しさ
など。
自分も他人も大切にできる心の状態といえましょう。
私たちが何か行動を起こす際、その動機が「愛」であれば行い、
「恐れ」であればやめておく、というのが選択の基準になるのではないでしょうか。
行動自体に答えがあるのではなく、答えは自分の心にある。
例えば誰かにプレゼントを贈る行為そのものに、「愛」か「恐れ」の答えはありません。
あの人に喜んでもらったら嬉しいな・・・・愛
あの人に嫌われたくないからプレゼント渡そう・・・・恐れ
という風に、答えはあくまで自分の中にありますね。
といっても、いつもいつも愛からの選択ができるわけではありません。
恐れの選択をせざるを得ないこともしばしばあります。
そんな時はどうするか・・・。
自分のそんな動機をしっかり受け止め、そういう時もあるさ、と許す。
愛からの選択ができない自分を許すのは、愛です。
「やり方より在り方」
最近よく耳にします。
自分に対しても他者に対しても、心を開き、愛でいられれば一番いいですよね。
でも、時にはできないこともある。
つい攻撃してしまったり、傷つけてしまったり。
イライラしてしまい、どうして前みたいに優しくいられないんだろう、と自分の心がざわついたり。
それもまた過ぎ去っていく、また元に戻る、と自分を信頼し、理想通りにいかなくてもまあいいよ、と許せたらいいですね。
と自分に言い聞かすのでした。
今日もお読みくださりありがとうございました。