自分は個人だという思い込み。自分は全体。非二元(ノンデュアリティ)

私たちは肉体を持っています。

その肉体を通して、色々なことを感じます。

同じような感情を繰り返し体験することで、その感情を感じる回路が強固に形作られ、自我ができ、それが自分だという思い込みが出来上がっていきます。

例えば、幼少期に何かと禁止令が多い家庭で育ったとすると、何か挑戦したいことがあっても自由にさせてもらえません。

このような体験を繰り返すことで、本来は自由なはずなのに、「不自由」「制限」という枠を自分の中に作ってしまいます。

何かやろうと思いついたとしても、無理なのではないかと挑戦する意欲を失ってしまったり、場合によっては何かをやりたいという意欲自体を感じにくくなってしまいます。

別の例では、常に気持ちを尊重され、好きなものや好きなことを受け入れてくれる家庭で育った場合は、自己肯定感や自己受容が自然とできている状態が作られます。

ですので、他人の目を気にすることなく自分の意見を堂々と伝えることができるでしょうし、制限よりも可能性をより多く感じる人生を送ることでしょう。

自分を受け入れるという習慣ができているので、他人に対してもオープンでいられるのですね。

これらの例のように、「個人」として育っていく上で色々なビリーフ(思い込み・信念)が形作られていき、その後の人生を送るうえで常に影響を与えます。

前者はネガティブ(と意味付けされる)なビリーフ、後者はポジティブ(と意味付けされる)なビリーフです。

リミッティングビリーフ(制限する思い込み)、エンパワービリーフ(力を与える思い込み)ともいいます。

しかしどちらも「ビリーフ」なのですね。思い込みであって、本質ではない。

個人という存在はこれらビリーフによって色々な感情にとらわれて執着やこだわりが生まれ、行動にも影響するというだけで、本質ではありません。

本質ではないのだけれども、人間が生まれて育っていく段階では一応「個人」という思い込みを確立させるのです。

私は「〇〇△△」という名前で、何歳で、職業は××で、好きなものは・・・・、大事にしている価値観は・・・・・。

という風に。

まずは個人という枠、他の誰でもないこれが自分だという自我が確立されます。

自分特有のものの見方、自分特有の偏りです。

本質ではなく、自我が自分だと思い込んでいる状態です。

本質とは本来の自己を意味していますが、その周りにくっついている自我が自分だと思っている状態です。

大きな出来事を体験し、苦しみに心がとらわれてしまうというのは、まさに自我の方に意識の重心があるからであり、本質の側に意識の重心が移動すれば苦しみに心がとらわれるということが無くなります。

ネガティブとされる感情を全く感じなくなるというのではなく、痛みは感じますが、苦しみとして抱え込みことが無くなります。

痛みと苦しみは違います。

痛みは痛みとして、自我の呪縛が無くなっても存在します。

指を針で刺したら痛いのと同じ、心も感情を感じます。

しかし苦しみというのは、それにとらわれ続けるという意味ですので、自我に引っ張られなくなると、苦しみを抱えることは少なくなります。

人生ではさまざまなことが起こりますが、まずは自我を確立させる方向に働き、人生のある地点からは、その確立された自我を解体する方向へと働くようです。

まずは自我のとらわれから徐々に解放されていきますが、世間一般の価値観=自分の価値観という思い込みが剥がれ落ち、自分を縛っている制限などが緩くなってきます。

職業や肩書といった「役割」に自分を当てはめ、自分を押さえつけていたビリーフからも自由になっていきます。

自我の解体、ビリーフの解体が進んでくるので、自我の抵抗も起こります。自我の抵抗とは、自分にとってイヤなことが起こり、それにとらわれてしまうことです。エックハルト・トール氏の「ニュー・アース」から引用させていただきます。

昔から個人の人生( 生命) に霊的な次元が開かれるのは、まさに老いや喪失や個人的な悲劇を通してだった。

内なる目的が現れるのは、外的な目的が崩壊し、エゴの殻にひびが入り始めたときだけ、ということかもしれない。

そのような出来事は形の解体に向かう回帰が始まったことを意味している。

エックハルト トール. ニュー・アース (Kindle の位置No.4218-4221). . Kindle 版.

 

人によってはより自我の抵抗を強く感じるような体験をするでしょう。

深い悲しみという形をとる場合もあるでしょうし、ものすごい怒りの体験をするかもしれません。

病気や人間関係の問題、経済的な問題かもしれません。

自我からの解放が徐々に起こる場合もあれば、状況を改善しようと自我が徹底的に頑張るということも起こりえます。

そのようにして自我の終焉に向かうわけです。自我の力が弱まり、解放が起こるのです。

このような解放が繰り返し、繰り返し起こるのが人生です。

色々な出来事を通して、自我から解放されていくわけですが、場合によっては余計に自我が強まったりもしながら、徐々に徐々に本来の自己に向かっていきます。

そして、やがて自分と世界、自分と全体は実は一体なのではないかという、ワンネスの意識を感じることも増えてきます。

自分は一人の人間、一人の個人であり、名前は〇〇△△。友人の◇◇▼▼さんとは別の存在だ、と当然思っているわけですが、自我が解体されるにつれ、自分と他人の境界もあいまいになっていきます。

自我、ビリーフが解体されていくというのは、自分は一人の個人だというのも、実は思い込みだったということに気づいていくプロセスなのですね。

肉体を通して色々と感じることに変わりませんが、それは自分で感じていることでもあり、全体が感じていることでもあると何となくわかってきます。

また他人が発した言葉に心が揺れ動くのは、それは自分自身の声でもあるからだという感覚も強まってきます。

優しさを感じる時も同じで、自分が自分に優しさを注いでいるので、他人を通してその優しさが注がれます。

他人に自然と優しくなれる時も、それは自分が自我という枠から解放されていて、優しさが自然と注がれるのですが、これもまたその相手がすでに自己受容ができていて、その反映としてあなたがその人に優しく振る舞うという結果になっています。

あらゆる言動に言えることですが、なんというか「空間にあるもの」を私たちは無意識レベルでキャッチし、相手に渡しているということであり、私たちといいうのはもともとパイプに過ぎないのです。

同時に個人でもあり、その個人として抱えているものを映い出したのが、外の世界、全体です。

心の奥底で自分を責めていたら、他人に責められるという現象が起き、自分に優しければ人にも優しくされるという現象が起きます。

自我にとらわれている段階においてはそれは外の世界で起きていることであり、自分の内面の反映とは思いません。

しかし、自分が個人として存在しているといビリーフが解体されるにつれ、外の世界は内面の反映であり、自分と世界は一体であるという感覚が強まります。

抱えているものが浄化され、そもそも抱えている存在自体が無いのだ、自分という個人自体がいないのだ、ということが肚落ちすれば、自分=全体ということが肌で分かるというわけです。

肚落ちと書きましたが、肚落ちする個人はその時はすでにいないので、ただ気づきだけがあるという状態なのです。

これは多くの非二元ティーチャーが言っていることであり、それらに触れ続けてきたこともあり、徐々に私の中にもなじんできました。

また私が28の時に、死に直面した際の気づき・覚醒にも通じます。

 

「あれ?何この感覚?」

「何か変わったかな?いや何も変わってない。」

「これは今までと同じはず。全く普通。何の違和感もないけど全然違う!あれ?」

 

自我が自分と思っていた小さな個人としての自分から、全体としての自分に意識の重心が移った瞬間でした。

その後また自我が力を取り戻し、その体験を自我のものとして取り込むという現象が起きましたが、体験自体は忘れられないのです。

その状態にとどまることは難しくまた以前の自我が主導権を握っている状態に戻り、覚醒状態も長くは続かずその後探求が始まったわけですが・・・。

ですので、こうやって文章には書けるものの、今現在その状態ではありません。

しかしまた感覚が戻りつつあるようで、自我の解放が進んできたのか、全体意識を感じることはあります。

 

個人の意識と全体はやはり連動しているのでしょう。最近はこのような非二元の気づきを語る人が増えてきています。これもまた私の意識の反映でもあるといえますし、同時にそれらの情報や発信に触れ続けることで気づきが浸透していく感じがします。

一人の目覚めが全体に貢献するというのは、存在の本質は全体にあるからなのですね。

周りに目覚めた人、目覚めつつある人が増える、というのはあなた自身が目覚めの段階に近づいていて、その反映ともいえます。

読んでくださりありがとうございました。

 

 

 

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