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知について。賢くなることはATMでお金を引き出すのに似ている

「今」しか存在しない。

3次元のこの世には時間があり、過去・現在・未来という風に物質が変化し、朽ち、解体され、また別の物質となって生まれ変わり・・・と延々と繰り返す世界です。

私たちの肉体も植物も物質も、原子レベルや素粒子レベルでみるとその粒自体は宇宙が誕生した時かたらずっとあり、また今の姿が解体された後もずっと残るということになります。

もちろん今の肉体や物質の姿形は無くなりますが、原子や素粒子は残ります。

万華鏡を想像してもらうとわかりやすいですね。

万華鏡の中に現れる色々な模様は変化し、同じ模様を作ることは二度とありません。

しかし、その模様を作る素材の一つひとつは最初から最後までずっと変わらず存在し続け、素材同士くっついたり離れたりしながら模様を作り続けます。

この世は巨大な万華鏡みたいですね。

3次元はこのように常に変化していく、つまり時間が存在します。

しかし真実の次元では時間は存在せず、「今」「永遠」です。

何も変化しない。

人間の頭ではちょっと想像できないですね。

3次元の頭でいくら考えても「今」は止まっているイメージですが、「永遠」というのはずーーーーーっと続いているイメージしか浮かびません。

今=永遠。ううーーむ、理解しがたい。全てを含む「無」でしょうか。

そして3次元のこの世では「時間がある」というのが当たり前の認識ですが、本当のところ「時間」は思い込みであり幻想です。

 

 

人間の知とは一体なんなのでしょうか。

「知」は時間をかけて物事を理解していく中で、自分の中に出来上がっていくものですね。

学問を勉強したり、知識を仕入れ記憶したり、色々と研究を重ね、検証し、法則を見出し、物事への理解が深まっていきます。

書物や実験など、自分の外の世界に働きかけながら、頭で理解し自分の中に知を蓄積していきます。

頭の中に知を積み重ねるには、時間が必要です。

しかし真実の次元では「時間」というものは存在しません。

「今」「永遠」の中になにも過去・現在・未来が含まれています。

またそれだけではなく、ありとあらゆる知識や叡智もその中に折りたたまれています。

この世は、時間が存在するというのが人類が共通で抱いている大前提ですが、それもまた思い込みであり幻想。

人間は知力で色々な物を発明してきましたが、それは「今」「永遠」である真実の次元から叡智を引っ張り出してきて(自覚のあるなしに関わらず、ひらめきや直観などを通して)、試行錯誤の上に色々な物が出来上がっていったということでしょう。

ですから、もともと何もかもが「今」の中にあるということ。

そしてその真実の次元の叡智に人間誰もがアクセスできる可能性を持っているということ。

人間のたましいはその次元に繋がっていますから、自分の中にすでに叡智があるということですね。

脳の機能には個人差があるので、理解の幅や深さが人によって異なりますが、何かを学び習得するというプロセスも、それはその人の中の叡智を引き出して肉体レベルで具現化している、といえるでしょう。

ATMに例えるとわかりやすいです。

AさんとBさん両者とも銀行にめっちゃお金を預けていて(100億円くらい?)、Aさんは好きな時に好きなだけ、100万円でも200万円でも1億円でも大金を引き出せるけど、Bさんは1回引き出すのに5千円までにしときなさいとお母さんに言われているので100億円あるにも関わらず大金を引き出せない状態。

手元にあるかないかだけ。どちらも銀行に自分のお金はちゃんとあるのです。引き出せるか引き出せないかの違いだけで。

知も似たようなものだと思います。

量子力学や量子物理学と仏教や東洋哲学で言われていることの共通点は有名ですね。

科学者は自分の外の世界で色々と探り、知を蓄積させていきますが、仏教や東洋哲学で言われている「悟り」は自己を探求することで「わかる」体験です。

自我の殻、思い込みがどんどん外れると叡智へつながりやすくなります。探求をせずとも臨死体験などで思いがけず真理がわかったという方がいますが、それは自分の存在の危機によって自我の殻が破れたからでしょう。

自己の奥にはたましいがあり、たましいは真実の世界とつながっていますから、全ての叡智が詰まった真実の次元からの直観を得られるというわけです。

そして内と外は同じ。

心の奥(たましいや潜在意識)と外の世界はリンクしていますので、瞑想など内へのアプローチと、科学的なアプローチは行きつく所は同じゴールになるのでしょう。

そしてこれもまたパラドックスなのですが、「今」しか存在しないのですよ、この世もまた。

次の瞬間というのは、「今」あなたが「この状態が当然だ」と心底思い込んでいて疑いようのない世界が現れるのです。

それは過去からの思い込みによって成り立っています。

過去からの思い込み。

そう本当は過去は存在しないのに、過去からの思い込みによって、

家の玄関あるでしょ?

玄関出たら道路があるでしょ?

道路を進んで行ったら買い物するスーパーもあるでしょ?

それらは「ある」と思っているからあるのですが、本当のところ今それらがあるといえるでしょうか?

今目の前で見ていないのであれば、それらは「波」の状態で形が確定しているわけではありません。

見て初めて物質となって目の前に現れるのです。

私の場合はどうなのだ、「大山さんは思い込みがだいぶ外れているようだから玄関の場所に言ったらそこは真っ白な空間なんですか?スーパーに行こうと思ったら玄関をイメージして瞬間で玄関を作り出して、道路もイメージして作り出すのですか?」と思う人がいるかもしれません。

私もこの世の真実がだいぶわかってきましたが、さすがにそれはできません。それほど「これが当然」と思い込んでいるビリーフは強固なのです。

(幽体離脱した時は似たような体験をしました。3階から2階に降りる時に延々と階段が続き、「あ、そうか2階の部屋をイメージしないと部屋には行けないのか、と途中で2階を作ったことがあります。以下過去記事から。)

階段を下りる際に「目をつぶっても景色が見えるかな」と試す。

をつぶると一瞬視界は働かなくなるが、やはり予想通り、目を閉じていても階段がぼんやりと見えてきた。

階段を下りていると、2階が現れず、ずっと下まで階段が続いていく。

「ああ、そうか心のイメージが現れるのか・・・」と気が付いて階段のイメージを終わらせると、ないはずのドアが現れて、リビングにつながっている。

この辺の記憶があいまいですが、カレンダーに印を書くという目的のことを思い出したのかもしれない。

しかしそれを試すことができずに現実世界に戻ろうと、階段をのぼり、「扉は開けなくてもすり抜けられるのでは?」と思いついたのでやってみるとできた。

 

知も同じで、何かを学ぼう、知りたいという意識(自覚はなくてもたましいからの衝動)によって、欲している知識が得られるように、世界が展開していきます。

6歳になったら小学校に入り勉強が始まりますが、そういうのも全て含みます。

学校に入ると後は自動的に学びのプロセスが始まっていきますが、これもまた自己の内面の反映であり、全く自覚は無くても日々学びが深まっていくよう、私たちの意識がそうさせているのですね。

この世は本当は「今」という一瞬しか存在していません。

その一瞬に過去・現在・未来、そしてあらゆる知識・叡智が含まれています。

あらゆる思い込みを外し真我と同一化すると本当は全ての人間が全知全能であり、天才なのです。

次の瞬間というのは、自分の思い込みが反映した世界であり、一瞬一瞬をそのように創造しているのが人間です。

何かを学んだ、理解した、腑に落ちた、というのも、自分の中で起こっていることが、外の現象として現れているということ。

「私今までこんなこと、あんなこと、色々学んだよー」というのも過去の経験という幻想。過去の体験があるという思い込み全てひっくるめた「今」が「今」「今」「今」とあるだけ。

知識を得た、という体験も無意識レベルで「知りたい」「学んで満足したい」というような思いを抱いていて、それが次の一瞬に願いが叶った現実となって現れているということ。

内にあるものが外に現れたということ。

外から得た知識のようでも、実はそれはもともと内にあるから、外の世界に「情報」となって現れるのですね。

なんとも不思議ですが。

 

自分の中に勘違いがあると間違った学びとして現象化するでしょう。

知とは少し異なりますが、根も葉もない人のうわさを信じてしまうという現象は自分の中に独りよがりで物事を判断してしまうという心の癖があるからですし。

事実を捻じ曲げて解釈してしまうという。

 

今日もお読みくださりありがとうございました。

 

 

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