神様、宇宙の意志に従って生きると人生がスムーズになる
※この記事は現時点で私が理解していることを書いています。
私の場合「人生がスムーズになる段階」「個を超えて宇宙にゆだねて生きる段階」まであと少しという体感です(2018年現在)。※追記 夏から低空飛行気味で後退した。しかしそれも宇宙の流れだと思う。2018年秋。
この世に折り重なるように神様や仏様、宇宙の法則といった働きがあります。
存在しているものの全てがそれにつながっていて、
生きていくためにはどうすればいいかを植物や動物はちゃんとわかっています。
人間の場合は自我が発達し、それが逆に見えないものを信じない、
神様・宇宙の働きといった大いなる力を「ないもの」としてとらえてしまっていることが多いですね。
色々な苦難を潜り抜けてきた人であれば、
苦難の時こそ耐えられるような力を与えてくれる、
それを越えられるような助けや知恵が与えられると、
そのような存在を体感として感じたことがあるかもしれません。
神様や仏様と呼ばれるもの(呼び方はなんでもいいのですが)、宇宙、大いなるもの。
これらは「想像」「イメージ」「宗教的教え」から「きっと自分を守ってくれている」と信じることが力にもなります。しかし人間の作った「想像」「イメージ」「宗教的教え」ではなく、本当に存在するものです。
ほとんどの人はそれを実感として感じることはないと思いますが、日常のちょっとしたインスピレーションもそことつながっているから降ってくるものだと言えます。
しかし人間は苦境に陥った時、なかなか神様を信じられず、
自分でその状況を「まずいからどうにかコントロールしなければ」と一人で頑張ってしまい
ますます悪化するということが多々あるでしょう。
「スーパー自分」になる。「自分神様」を表に出す
スーパー自分というのはイシドロ・リバス牧師の言葉、「自分神様」というのは大木ゆきのさんの言葉です。
イシドロ・リバス牧師の著書「二人の自分」の中でこう表現していました。
大木ゆきのさんは最近大人気の作家ですが、スピリチュアルな体験をして以来その能力が開花。神様の仕事をしている方だなあと私も思いますし、伝わってくるパワーがすごいです。自分神様というのは自分本来の神聖を発揮して生きるという意味です。
※記事の最後にお二人の著書を載せています。
宇宙があなたを通して何をしたいのか・・・・
神様はあなたを通して何をしたいのか・・・・
心を研ぎ澄ませると、それはあなた自身も「やりたいこと」として感情が答えを出してくれますし、
実際に無理して頑張らずとも、自然にそれが出来てしまうことでもあります。
多くの人は育ってきた中で社会通念やら社会の価値観に惑わされ、
それに従い自分の本心を置き去りにしています。
ですから「なんかおかしい」「なんか充実してない」という違和感を感じつつも、
本心に従うと生きていけないのではないかという恐れや、
もういい年だし夢みたいなこと考えても仕方ない、
といった風に本心の声をかき消してしまいます。
なにも人から見て「すごい」と言われることが神様や宇宙が望んでいることだとは限りません。
中にはそういった使命がある人もいますが、
自分が自分の人生をちゃんと生きているという実感、充実感があって、
自分のすることで誰かが喜んでくれて嬉しい、
お金や名声よりもただただこの仕事楽しく、充実感があり、
もっと人のために与えたいと思う・・・このようなことが使命・天命ではないでしょうか。
料理でも掃除でも、仕事でも人とコミュニケーションを取ることでもなんでもいいので、
目の前の人や社会が少しでも良くなるように、働きかけること。
そして「自分がやってあげた」という結果にとらわれないこと。
歌うことかもしれませんし、何かを教えることかもしれません。
お父さん、お母さんとして子どもたちに愛情を注ぐことかもしれません。
面白いことをやって人を笑わせることかもしれません。
生活が便利になるような発明をすることかもしれません。
遺伝子の研究かもしれません。
やはり「今ここ」「目の前の人・状況」に心を開いて接する。その繰り返し積み重ねだと思います。
とてもシンプルなことですが、案外これが難しい。
日常生活で社会の道徳や価値観に合わせて自分の本心を置き去りにしてきた人ほど、「今ここ」にゆがみが出ているのがわかります。
そのゆがみが「思い込み」「邪魔になるビリーフ」「ブロック」などと呼ばれるものでもあります。
そういうものが「自我」「エゴ」の働きともいえましょう。
宗教的修行や瞑想修行が進むと「魔」という力に出くわす
「魔」とは何か
魔という単語からは何かドロドロした恐怖に陥れるような、
人を傷つけるような、地獄に突き落とすような闇の力のようなものを連想するかと思います。
それらももちろん「魔」です。
そして普段からそのような働きかけはあり、気が付かない人が大半です。
私自身も今みたいに宗教的なことや心理学などの勉強をする前は
心の8割から9割は「魔」だったと思います。
自覚がないので気にすることすらなかったですが、
今は心を見つめることを習慣にしているため、どのような働きが「魔」なのか意識できるようになりました。
意識はできても、来ないよう、発生しないようにすることはできません。
聖人が宗教的修行によって解脱をする直前にまさしく「魔」が立ちはだかり、それを越えることが大切とされています。
修行によって個人の心を超えたレベルに心というものは成長するので、魔もそれに応じて力を増すようなのです。
オウム真理教などはまさしくこの魔に取り込まれたと言わざるを得ないのですが、
個を超えたような世界にいくにはそれだけ危険も伴うということです。
「魔」というものはあるときは神や天使のような姿をしていることもあり、一見「善」を装うこともあるようなのです。
修行者といえどもよっぽど気を付けていないと取り込まれてしまうようです。
宗教的修行で出くわす力の強い闇の存在が「魔」と言っているわけですが、
究極的には自と他を区別するもの全部が「魔」ともいえます。必ずしも「悪」という概念があるわけではありません。
※天台小止観参照。記事下にリンクがあります。
自分と他人は別物、自分と周りは別ものととらえる心自体が「魔」とされています。
ありのままの自分ではだめという思い込みも「魔」と言えましょう。
例えば「自分が偉いと思われたい」という気持ち。
他にも「他人から嫌われたくない」という気持ち。
自分と他者が別の存在という前提があって、そのような気持ちを抱くことになります。
「個」としての自分をどうにか存在させようする意識です。
自分の力を誇示したい、あるいは自分を過剰に卑下して目立たないようにしたい、など。
人間として生きていたら当たり前に抱いている意識であります。
しかし、真実はというと「個として存在している」というのは初めから幻想であり、思い込み。
ビリーフが外れて外れて外れて、心の奥に潜っていくと
「自分という存在自体がなかった」
「自分はいない」
という「個として存在する」という当たり前のように抱いている、存在の根底を支えているようなビリーフさえも幻想という真実に行きつきます。
今までのあんなこと、こんなこと、あんな気持ち、こんな気持ち・・・
ただただ「個」としての器の中を流れる現象に過ぎないんだと。
(この魔があるからこそ、人間であり、苦悩だらけの人生を送ることになりますが、それこそだいご味だという見方もできますね。)
この究極の真実にすんなり気づく人もいるかもしれませんが、
どうやらその気づきに至る前には、そうならないように邪魔をする「魔」が働きかけてくるようです。
つまり「個」を無くして全体に従おうとすると、「個」としての存在を維持したいが故に自我が葛藤する。
自我にとって、自分が本当は存在しないものなのだと見破られるのが「怖い」。
だから個という意識が全体意識に目覚められると自分がいなくなってしまうことから
「個が存在できるように守る」。
その働きが不安や恐怖、傲慢といった個としての自分に執着する心と言えます。
「魔」は幻想。自分を守る意識が「魔」。個の自分ってほんとはいない
結論から言うと、ビリーフの大半が外れ、心のノイズも静まると、本心本音の声が聞こえるようになりますが、
その声は実は宇宙とつながっているのでその直観に従えば人生うまくいきます。
しかし大半の場合、やはり大きな不安が襲ってくるのです。
「そうはいっても本当に大丈夫かな」と。
「個が消滅する」というのは死ぬような感覚ともいえるので。
「死ぬのが怖い」という状態もなぜ怖いかというと
自分の存在があるという前提でとらえているから怖く感じる。
存在が消えそうな不安というのは、自分の存在が「あるから消える」と思い込んでいる。
もともと個として存在しているという認識自体が幻想で、もともと「神」「おおいなる意識」のみが存在する。
個の意識はその道具みたいなもの。
どうにかしようと頑張るのは「道具が主役になっている」ようなものです。
主導権を道具が握っているのだからなかなかうまくいかない。
主導権を神や宇宙、大いなるものに明け渡すことが、個にとっても人生スムーズに行く秘訣。
もともといないのだから「消えそうで怖い」と感じている感情だけがあるのであって
そう感じている個としての存在はどこにあるのという話です。
あまりに不安が強いとそうやって後戻りしまうかもしれない。後戻りしても結局大丈夫なことに変わりはありません。
大半の人がそこで耐えきれずに戻ってしまうかと思います。
「恐れ」というのは幻想にすぎないので飛躍したいならここで神様を信じて踏ん張ることができるかが勝負。
神様どうにでもしてくださいというくらいまで追い込まれるかと思います。
ここで諦めてしまうと「やっぱりできなかった」となりますが、
ここで信じ切って委ねられるかどうかが試されていると私は考えています。
恐れている自分は本当は「いない」
いないのに怖がることはない。
個が消えると全体意識がそのまま現れ、それがそもそも自分(こう表現するのは変ですが)わたしだったんだということ。
ああ、なんだそうだったのか。最初から大丈夫だったんだ。
精神世界でよく言われるように、私たちが生きている3次元は「夢」のようなもの。
個人という存在は全体意識が見ている「夢」の登場人物です。
自分がいなくなってはじめて自分の人生が始まるのかもしれません。
それは個として頑張っていた頃のやりかたではなく、全体が個を通して生きるという意味です。
スーパー自分、自分神様ですね。
肉体の死に直面することも似たようなものかもしれません。
自分の存在が消えてしまうようなどうしようもない絶望を感じる。
誰もが向き合わないといけない。でもその先はちゃんとある。
神様や仏様、大いなるものという存在がちゃんと受け止めてくれるはずです。
そして、感じるのは、亡くなった人は個として3次元に生きている人間よりも、
もっと大きく私たちに働きかけて「生きている」のではないかということです。
(ちなみに、こうやって書いている私は2007年に宗教的体験をした際に上記のような認識に一瞬なりましたが、
やはりその際に「魔」と出くわしたのですがそれを超えられず「個」の世界に戻ってきてしまいました。
目からうろこが落ちて何もかもクリアに見えたのですが、その落ちたうろこが数枚また目の中に戻ったのでちょっと濁った景色が見えています。
2015年の病院研修の際も、宗教的体験の感覚が戻ってきて平安を感じたその次の瞬間、自分が消えるような、世界が一瞬で無くなるような恐怖を感じました。
この文章も書きながら自分に言い聞かせているような状態で今も「個」の意識が大半です。
人生「夢のようなもの」と気楽に感じることもあるにはあるものの、その夢にどっぷりはまっていることの方が多いです。)
個としての自分を保とうと強い意識が働く、魔の力が強くなるという状態は
逆にいうと全体意識に近づいているとも言えます。
日常にも「魔」になるものがある
私にとって以前の仕事は
・「生きていくのに不安だからお金を稼ごう」という恐れと
・「個性に合わないことも我慢しないといけない」という諦め
が動機、つまりこの世でお金を稼いで生きていく(個を保持する)ためには
自分の心からの幸せを諦める、そこそこのところで我慢して不完全燃焼で生きていくことを意味していました。
宗教的体験をしていなかったらこのような気持ちにはなっておらず、ずっと仕事を続けていたと思います。
あの体験で抱えているビリーフの大半がぶっ飛んだことで、よりクリアな意識になり、本心に気づけるようになりました。
本心に気づくということはある意味残酷でしんどいことでもあります。
本心に従って生きるというのは、シンプルな言葉でいうと「好きなことをして自由に生きる」ということです。
自分に向いていないことを我慢してやるという行為をやめるということでもあります。
つまり、それまではごまかしてもどうにか気にせずにやってこれたのが、自分の心をごまかすことが苦痛になってくるのです。
私の場合、「人間の心」が一体どうなっているのか、神様とは一体なんなのか、人生のしくみは一体どうなっているのかということの探求が好きで好きでこのようなブログを書いているというわけです。
自分の心を掘り下げることがしんどくもありつつマゾ的に好きで、自分のことがわかるようになると、他者の心のことも感じることができるようになってきました。それがグリーフケアやスピリチュアルケアのセッションにつながっています。
「自由に」といいながら「限定される」ことも意味します。
それまで自分を支えていたビリーフ、価値観が通用しなくなりますし、
無理にそこに合わせて生きていると本心からの声を無視できずにしんどさが増します。
それまで喜んでやっていたことへの情熱が無くなってしまったりということもあります。
本心の声に従いたいという欲求が強くなってくるともうそうせずにはいられない気持ちになり、
その道に進むことになりますが、「果たして本当にやっていけるのだろうか」という不安も生まれます。
恐いですがもともと「魔」というもの「個」は幻想にすぎないんだから
全体意識、神様、仏様に任せてなるようになる、自分は自分の本心に従って行動してきたし、
ちゃんとやっていける、神様がどうにかしてくださる、と「お任せ」「信仰」しかあとはできない。
セルフモニタリングと師につくことで乗り切る
弟子に準備ができた時に師匠が現れるという禅の言葉があったかと思います。
もしそのような師が身近にいないという場合は力のある人が書いた本からも多くを学べますし、自分にあった修行先を見つける参考にもなるかと思います。
参考になった本
◆「自分神様」を表に出せば、人生は勝手にうまくいく
著者:大木ゆきの
とても読みやすくわかりやすいです。自分のやりたいことがある程度固まり、その道に進もうとしている人向けですが、そこまでの決心を持っていない人でも自分への自信、信頼を取り戻せる本だと思います。
自己受容が進みます。気分が落ちた時に復活できる本です。レビューを見ていると合わない人もいるようですが私は好きです。
著者:イグナチオ・デ・ロヨラ 訳:門脇住吉
キリスト教の厳しい修行の一つです。読み込むだけでも役に立ちました。
宗教的な知識がないと難しく感じると思います。慰めと荒み(すさみ)の状態を把握することは大きな助けとなっています。
2018年は結構「すさみ」の状態が多いので何度も読んでセルフケアしています。
二人の自分―心の動きをみつめて
著者:イシドロ・リバス
上記「霊操」を元に宗教的知識の乏しい人でもわかるように書かれたのがこの本です。
自分の心を見つめるヒントがたくさんあります。
◆現代語訳天台小止観
訳:関口真大
仏教系です。宗教的知識がないとわかりにくいですが、魔についてネットで調べようとするくらいの人であれば読みこなせるかもしれません。
◆坐禅・瞑想・道教の神秘―天台小止観と太乙金華宗旨 (さみっと双書)
著者:本山博
ヨガがベースです。上記3冊は本山博先生の本です。語り口調で書かれている部分が多く私にとってはとても理解しやすかったです。人によっては難しいかもしれません。
宗教的修行をする人はもちろんですが、先生のおっしゃる結果を求めずただ行為になる「超作」については全人類に知ってほしいと思います。
著者:吉福伸逸
心理学の面から、個を超える際にはどういうことが起きるのか、どういった感情が沸き上がってくるのかについても書かれています。心理学の言葉を使っていますが言葉は違えど「魔」を超える際には参考になるかと思います。
著者:鎌田東二
鎌田先生の本も何度も読んでいます。
個人の心の奥を探っていくと、自分でも自覚していないような心の闇に遭遇することがある。
オウム真理教が陥った「魔」や凶悪事件の加害者に見られる「魔」について書かれています。
修行者には「魔」はつきものだそうで、今後その道を進む方にはぜひ読んでおいてほしい本です。
以上、「魔」についての記事でした。
読んでくださりありがとうございました。