2007年、入院中の覚醒体験の時の気づきについて、一つ思い出したので書いておきます。
思い出すきっかけとなったのはこの本「アミ小さな宇宙人 (徳間文庫)」です。
「アミ3度めの約束: 愛はすべてをこえて (徳間文庫 ハ 9-3)」
これらの3冊、前から興味があったのですが、現在絶版。
そのため現在1冊1万円前後という高値がついていて二の足を踏んでおりました。
無料で公開しているサイトがありましたので、リンクを貼らせていただきます。
「著作権は大丈夫なのだろうか?」と考えてしまいましたが、
内容を読み進めるうちに、多くの人々に読んでもらうことが著者のエンリケバリオス氏の望みでもあり、
高度に発達した存在にとって「所有」の概念はないとのことです。
ですので、問題は無さそうかと。
ここ数日で一気に読んでしまいました。
内容はアマゾンのレビューに多く見られる通り、非常に示唆に富んだものでした。
生きていく上で本質的に大切なことに改めて気づかされました。
一度読んだのみですので、今後また繰り返して読み、自分の中に落とし込んでいきたいと思います。
さて、今回「思い出したこと」は一体何かと言うと
「不注意は罪」
という気づきです。
アミの本の中にこのことが書かれていて、私自身も2007年のあの覚醒体験の際に同じ気づきがあったことを思い出したのです。
こちらに当時の気づきを書いてありますが、
関連記事:覚醒体験・神秘体験
「不注意は罪」に関しては半分覚醒、半分睡眠の状態で降ってきた気づきだったため、忘れておりました。
年月が経ってしまったこともあり、記憶があやふやなのですが、
悪意のない不注意がなぜ罪なのか?
まず、罪というのはエゴが優位になっていて本来の自分が生かされていない状態を指します。
本来の自分というのは、今ここ目の前の人や物事に心が開かれている状態であり、あり方。
エゴが優位な状態とは、簡単にいうと利己的な状態ですね。
自分の本質が背後に追いやられ、エゴに支配されている状態。
今ここ目の前に対してしっかりとコミットできていれば、不注意になることなどないのです。
不注意は「ついうっかり」とか「ぼーっとしてた」など軽い感じの表現で表されることが多いですが、時は生命に関わる大惨事につながることもあります。
当時病室で感じたインスピレーションは、自宅のガスストーブをうっかり消し忘れるという内容。
火事になったら家族に重大な危害が及ぼされる。
ガスストーブの消し忘れ=不注意が原因。
ガスストーブを使う際には、ちゃんと安全であることが確認されていなければならないし、安全な使い方をしなければならない。
また、消すのを忘れるなどという不注意が起こるのは、他のことに気を取られたりして、家族の安全に対する意識が薄れるから。
消し忘れが原因で万が一のことが起きたら、「不注意」がどれほど罪深いことなのかを身をもって知ることになる。
「不注意」
目の前のことにコミットし切れておらず、意識が別のことに向いてしまい、大事なことへの意識が抜けてしまい不利益や害を及ぼす。
たとえ悪意が無かったとしても、不注意が原因で誰かに危害を加えるかもしれない、それは大きな罪になる。
危害につながらなかったとしても、不注意であったことはエゴが優位になっていたということであり、罪には変わりない。
2007年の入院中、おぼろげながらこんな気づきがあったのを、「アミ小さな宇宙人」を読んで思い出したのでした。
また、矛盾するのですが、罪というのは「個の世界」に生きているが故に生まれる概念です。
「個の世界」では善悪があるため、個人に罪があるように思えますが、真実は違います。
個の次元で「罪」と判断されるものであっても、真実の次元では「罪」ではなく一つのエネルギーの表現。
関連記事:⑪罪を憎んで人を憎まず。スピリチュアル・覚醒体験からのインスピレーション
パラドックスです。
ですので、個の次元・3次元では「罪」とされ個人的に罪悪感を感じるものですが、真実の次元・普遍意識からの見方では、それはエネルギーの表現形態の一つにすぎません。
ですので、それを行った「人」に罪があるわけではない。
でも個の次元・3次元では「私が悪い」「あの人が悪い」と罪を背負ったり背負わせたりするのもエゴのはたらきであると言えましょう。
真実の次元から見ると、もともと「人」がいるわけではないですし、私もあなたもいません。
しかしその認識ができる段階=全体意識・普遍意識に到達する過程で、個人として生きるプロセスを経て、気づきが深まり、進化が続きます。
私のブログは個の世界からの見方、全体意識からの見方が混在しており、またネガティブな感情を受け止めることの大切さなども書いていて、
「内容が矛盾してる」と感じることがあるかもしれません。
お読みくださりありがとうございました。