2013年執筆記事です。
生死をさまよった際に体験したいわゆる
「神秘体験」「宗教的体験」「覚醒体験」「一瞥体験」「変性意識」と呼ばれているスピリチュアル体験からの気づきです。
インスピレーションが勝手に降ってくる、心の中にわいてくる状態でした。
当時の感じた感覚そのまま書いています。
罪を憎んで人を憎まず
人の行いは「その人」がやっているようにこの世視点からは見えるけれど、
真実の次元から見ると「そういった流れを拾ってしまったのがたまたまその人」ということ。
感情は勝手にわいてくるものですね。
この世の次元、3次元に意識の重心があると、その勝手にわいてくる感情に巻き込まれ、ずっと保持してしまうことも多く、その保持し続けた感情がまるで自分のようになってしまいます。
例えば誰かが憎い、恨んでいるといった場合など、自制が利かなくなって人を攻撃してしまったり。
この世次元の自分はそうしてしまったことに対しても後になって後悔し、罪悪感を感じたりと自分を罰することになり、「逮捕されるという現実」として反映されることとなります。
しかし真実の次元から見ると、感情というのは流れているものであり、個人がそれをたまたまキャッチしてしまうということ。
何度も何度も同じ感情をキャッチして保持する癖がついているだけ。
そしてそれがどう外の世界に作用するか、その人がどのようなことを発言し行動を取るかということもまた、
自由意志によるようにも思えるけれど、真実の次元からみるとそれはもうそのようにすることが決まっていて、法則が正確に働いただけということ。
何を思うか、言うか、行うか・・・これらは自分自身がやっているように、個の世界(3次元のこの世)ではそう見えますが、実は勝手にそう反応しているだけ。自動反応が起こっているだけなのです。
私たちの思考、感情、言動、行動などすべてが法則の中で完璧に動いていて、周囲との相互作用やそれまでに積み重ねてきたと3次元ではそう解釈されている経験などとの連動で、何がどう発動して誰にどう影響を与えて・・・ということが決まっている。
そういう意味で、罪というのは個人に責任はないということ。
誰かの業を表出したましいを浄化させるには、もう一方が悪役となる必要となる場合もある。
そうするとその悪役は、この世視点では悪であっても、たましいの次元から見ると全く逆ということになります。
3次元では人間はみな「個」である状態に意識の重心があります。だから、個人が行ったことは自己責任という風にとらえられています。
また、個として独立した存在であると心底思い込んでいるのが通常なので、人間社会で「罪」とされる行いを実行した場合、「それを自分がやってしまった」という思いに駆られるのは当然といえば当然です。
真実のところ、それを行ったという個人はいませんし、勝手に自動反応でその個体が行ったことなのですが、肉体をまとっているその個体こそが自分だという思い込みがあり、「ああ、悪いことをしてしまった」と後になって思うのですね。
そうすると、実際に法律で裁かれるという現実がその人の身に起こりますし(現実は心の反映ですから)、たとえ逃れられたとしても、潜在意識の中に「罪を犯した」という思いがあるので、現実の生活で罰が当たったような現象が起きたりします。
病気や事故に遭ったり、家族が不幸な目に遭ったり。
罪を償う、罰が当たる、というような現象も、その人の心の奥で抱いている思いが現実のものとして現れたということになります。
たましいの次元(原因身・コーザル界)にある種が3次元で現象化します。
たましいの次元というのは、私たちが「個」としての存在のはじまりです。
その次元より高次になると、ワンネスであり非二元。
全ては一つという宇宙意識の次元です。
非二元の視点から見たら、個として悪を行った場合、被害を被った相手の業を浮かび上がらせ浄化につなげたという見方もできるわけですね。
相手も業を抱えており、その業は自分一人で解けないわけではないけれども、業を解放するには「心底しんどい思いをして気づく」という体験が必要だったりします。
それを現実化させるのが悪の存在でもあるのです。
被害に遭う、傷つく、ということがなければ業の解放が難しい場合があるからです。
これは非二元の視点から見た場合はどちらが善でも悪でもないということになりますが、3次元の視点では到底受け入れられない考えとなります。
今日もお読みくださりありがとうございました。