上智大学グリーフケア研究所で学ぶ以前に抱いていた私の思い込み
2012年に上智大学グリーフケア研究所でグリーフケアを学び始めました。
グリーフケアとは喪失体験による悲嘆ケアのことを言います。
喪失体験といっても色々挙げられるのですが、主に死別の心のケアを中心に学びました。
ケアをする側が、ケアされる側の価値観・世界観に入り、その枠組みの中で、その人にとって最も助けとなるような資源を見つけ、それをケアに生かすということ。
当時の私にとって予想外でした。
え?正しい方向に導くのがケアではないんや?
私のもののとらえ方の変化
10代20代の頃どんな価値観を抱いていたかなんて覚えていないのですが、おそらく
健康=善。
病気=悪。
生=善。
死=悪。
「自分はこんな価値観を持っている」という明確なものではなく、ただぼんやりとそう思っていたように思います。
単純ですが。
20台後半になって江原啓之さんの本出会い、新たな価値観を抱き始めるようになりました。
大我と小我。物質的価値観と霊的(精神的)価値観。
2006年頃、つまりまだ宗教的体験をする前の段階でこのような考えを知り、できるだけ大我の行動を取ろうと努力もしておりました。
大我の行動というのは利他的行為のことを言います。小我の行動はエゴに基づく行為です。
目に見える物質的価値観で物事を善い悪いと判断することに対しても書かれており、霊的な価値観から見ると全く真逆の意味になる事柄もあるのだということも学びました。
例えば、私が若い頃に思っていたように、「生」が善で「死」は悪ととらえられがちですが、霊的な価値観からみると「死」もまたたましいの故郷に帰ることですから「善」となるのですね。
病気もそうです。物質的価値観では病気は治すべきもので「悪」ととらえられます。しかし霊的な目で見ると病気から多くを学ぶこともあり、病気にかかるからこそ、人格が磨かれることに繋がるから「善」ととらえることができるのですね。
人が人格的に成長し、他者のために愛を行うことが善であり、自分の欲求のために他人を利用するなどの行為は悪となります。
表面的な行為や事象ではなく、それを行った際の動機が大事であり、その動機が大我なのか小我なのかが問われるということも書いてありました。
江原さんのおっしゃる思想の根底にはスピリチュアリズムの考えがあります。スピリチュアリズムについては「シルバーバーチの霊訓」が有名です。
興味のある方は詳しくは調べていただくか、本をお読みくださいね。
他の宗教なども他者に愛の心優しい心で接する利他的行為を大事にしています。
2007年、宗教的体験をし、その持っていた知識が今度は生きたものとして、「ああそうだったのか」と腑に落ちました。
愛の心で人と接することは本当に大切なことなんだと。
そしてその「愛の心」とは、その人のたましいの喜びに寄り添うということであり、その人の物質的価値観・エゴに寄り添うことではない、という思いを抱くようになりました。たましいの願いを叶えることが大事で、エゴの欲求を叶えることではない、と。
エゴが出てきたのなら、その奥にある本当の願いというのがたましいの願いだから、そっちの根っこの方を叶えるのが正解なのでは?と思っていました。
この考えもまた後に相手の話を価値判断してしまう材料になりえるのだということがわかりました。
生に執着したり死を悲しむことはエゴなのでは?エゴに寄り添うのはおかしいのでは?という思い
何事も動機によって善になったり悪になったりします。
こうでなければダメ!と自分の欲求にがんじがらめになり、現実を否定するのはエゴ。
それは小我の心でもある。
だから大我の心で生きられるように導くことがまさに大我の行動。
このような考えを抱いていました。確かにこれは今でも正しいと思います。
大我の行動というのは他者に対して愛を行うということですので。
しかし研究所でグリーフケア・スピリチュアルケアのケア提供者の寄り添いについて学んでいると、あれ?と思うことがあったのです。
例えば、
大切な人を亡くして悲しみに暮れている人に「お辛いですね・・・。」と言葉をかける。
治らない病気にかかり、自暴自棄になっている人の「私は神様を恨みます。」という言葉に対して「私も神様に対して怒りを感じます。」などと言葉を返したりもする。
幸福そうな他人の姿に怒りと嫉妬を感じ、蹴飛ばしてやりたいという言葉に、そう感じるのは当然のことだとケア提供者が答える。
・ケアとは苦しみ悲しみを抱える側の人間が小我であるエゴを解放して、大我の心で生きられるように導くことではないのか?
・死や病気、人間の思う不幸というのは、悪いことではなく霊的真理に目覚めるための試練なのだから、そのことに早く気づき、不幸に見えることであっても本当は何もかもが「幸せ」に繋がることだとわかってもらうことが大事なのでは?
そんな疑問を抱いていました。
つまり、
相談者がエゴや執着といった苦悩から解放され、
霊的・宗教的に「こっちが正解」という方向にケア提供者が導いていくことが大事なのでは?と。
宗教的ケアは宗教の教えや教義に基づき、苦悩から人を導いていくものですが、その考えと近いです。
ですので「これはいったいどういうことかな?」と疑問に思ったのですね。
研究所での学び。目の前の相手のそのままの心に寄り添うことが大切
スピリチュアリズム、仏教、キリスト教他、宗教的な教えによると人間の人格の成長ということについて、どういった行動に気を付けるべきだとか、どうのような心の在り方でいるべきだとかいうことが書かれています。
こうすれば上に上がれますよ、幸せになれますよ、という風に道が示されているので、それに沿った対応をすれば方向は示せるのですね。
宗教者や宗教的な教えに詳しい専門家であれば、
「あなたのこういう考えはエゴ・執着に基づくものだから、それにとらわれないように、もっと平安な気持ちでいなさい。」
などと言うことはできるのです。
言っていることは正しいですね。
しかし正しいことを言われたとしても、抱えている苦しみがらくになるでしょうか。
人には言いにくいようなドロドロした心の叫びを打ち明けたのに、気持ちを受け止めてもらえないので余計に孤独を感じたり、もう話さないでおこうと思うのではないでしょうか。
となると、かけた言葉というのはケア提供者自身は愛の心から、大我の心からの言葉だと自分では思っていたかもしれないけど、そのことこそ、自分が問われるということなのですね。
本当にその言葉は愛からなの?
大我の心からなの?
相手のためを思って発した言葉なの?
自分のための言葉だったんじゃないの?と。
そこで、訓練ではどのような動機でその言葉を発したのかということを見つめます。
「これが正しい」と自分で思っていることを押し付けてしまったのではないか
このような気づきが訪れます。
つまり相手の価値観の中に入るのではなく、自分の価値観の中に相手を入れようとしたということ。
自分が正しいと思っている方向に、相手にも従ってもらおう、きっとそれが癒しにつながるから。と思っていたけど、
それこそが押しつけであり、相手に対して「自分が正しい」というエゴを押し付ける行為なのですね。
怒りや嫉妬、恨みの感情、苦しみ、悲しみ、不満、
これらの感情は「エゴ」とされ、
無い方がいいと思われがちですが、
相手に寄り添うという時は
それらのドロドロとした感情を抱えているありのままの相手を否定せずに、そのまま受け止めること。
相手の持っている価値観の中に入っていき、あなたはこう感じているんですね、と受け止めることです。
先ほどの例
大切な人を亡くして悲しみに暮れている人に「お辛いですね・・・。」と言葉をかける
この場合は、私は当初
「亡くなるのは肉体だけ。たましいは存在しているから大丈夫。そんなに悲しまなくていい。」
このように対応するものだと思っていたのですが、目の前の人が悲しんでいるのだからその悲しい辛いという気持ちに、同じように共感するということなのですね。
価値判断し、正しい答えに導こうとする行為は、相手から逃げようとする行為になることもあります。
正しい答えに導こうとした自分の行為の動機、どうしてそのようにしたくなったのか、訓練では動機を見つめ、自身の心の中にあるものに向き合っていきます。
死が近くなるとスピリチュアリティが揺さぶられ、深まるから、俗な欲求よりも宗教的なものに惹かれるのでは?というのも思い込み
自分の存在が揺らぐような出来事に直面すると、スピリチュアリティが揺さぶられます。
スピリチュアリティというのは霊的な感性、たましいやいのちとも表現できるかと思います。
人間は誰しも心の奥にちゃんと霊的な次元や叡智を受け取るセンサーを持っています。
また、人間という枠を越えて、抱えている執着から解放され、霊的な次元、たましいの次元に移行していく存在でもあります。
特に死が近い人や大きな苦悩を抱えている人ほど、そのような傾向が強まるのではないかと思います。
しかし、そのような可能性が人間には秘められていると流れを信頼しつつも、それをこちらが急がせたり決めつけて判断しないことが大切です。
「タバコを吸いたい」
「麻雀をしたい」
もうすぐ死ぬかもしれないのに、こんなことがやりたいの?
それは間違った思い込みなのでは?
そう感じてしまうかもしれませんが、これもまた聴き手の思い込みを反映した反応です。
霊的・宗教的とされることと俗とされることを区別しているのですね。
「グレゴリオ聖歌を聴きたいというのであれば理解できるけどタバコを吸いたい、麻雀をしたいというのは理解できない」
と思うかもしれませんが、それも思い込みということ。
目の前の人がそう言うのであればその気持ちに寄り添うことが大切です。
やりたいことが宗教的か俗ということは関係なく、ただ純粋にその人はそれがやりたいということ。
目の前の人の今感じている思いをしっかりと受け止めることが大事なのだと学びました。
その時、その時、その人が抱えている価値観の中で、その人が望むように過ごせることが大事です。
価値判断せずに話を聴く、相手の価値観の中に入るとは、どういうことなのかを研究所で学んだという話でした。
読んでくださりありがとうございました。