辛い状況にあっても助けを求められない動物のことが気になるのは、自分の問題が解決されてないからなのか

「どこか遠くの出来事」という形をとって「今ここ自分」に直面させられる

以下は2012年に書いた記事です。当時は動物愛護のことも気になっておりました。

毛皮について書いています。生きたまま皮を剥がれそれでも息絶えるまで痛みに苦しむウサギ。逃げられないようにと足先を切断され、そのまま皮をはがされるまで生きたまま飼われるタヌキ。また仲間が残虐な方法で殺されていくさまを見て気が狂い我が子を食べてしまうキツネなどの動物のことを知りました。

人間も命があるので、命を保つために動物を食べたり、極寒の地で寒さをしのぐために毛皮を身に着けるというのは理解できます。しかし単なるキーホルダーみたいなものにまで本物の毛皮が使われているのを見ると悲しくなります。

まずは2012年の記事。この記事の後に今の気づきを書いています。

毛皮について

大学時代、ファーのマフラーやレザーのコートが流行っていた。

ファッション誌を見てステキだなと思い、ラビットファーのマフラーやレザーのスカート、コートを購入。

その後、ファーやレザーのものをわざわざ選んで買うことは無かったけど、コートの襟にファーがついていたり、品質の良さを求めて買う製品がレザーだったりしたことはある。

恥ずかしいことについ最近までそれらが動物の体だとは頭で知ってはいても、それらの製品にされる動物たちの苦しみというものにあまり意識を向けて来なかった。

どのように毛皮が剥がされるのかなど全く知らなかったが、毛皮を剥がれた動物は当然死ぬということは頭の片隅にはあった。 考えたくないことには私自身、あえて避けてきた気がする。

しかし、ペットを飼うことになり、動物にも人間と同じように感情があるということがわかった。 そして動物の置かれているさまざまな現状を調べると、当然「毛皮」問題を考えないわけにはいかなくなったのだ。

私たちの多くは、毛皮にされる動物は安楽死させてから皮を剥いでいると思っているのではないだろうか。

ところが、中国のある毛皮工場では動物を生きたまま扱っているのだ。

こちらのサイトに詳しい情報が載っているのでどうか現状を知って欲しい

↓↓↓

http://www.no-fur.org/

・・・だったら痛くない方法で毛皮を剥げばいいのでは?という意見が出てくるかもしれない。

私は、毛皮を人間の服や装飾品として使うこと自体間違っていると思う。

極寒の地で毛皮以外に防寒できるものがないというのなら仕方が無い部分もあると思う。 生きていくためだからだ。

しかし、日本に住んでいて毛皮がどうしても必要とは思えない。

無くても他の防寒着がいくらでもある。

それほど必要でないもののために動物の命が奪われることについて自分自身どう思うか。

人間の都合のために動物は動物自身の本来の生活を奪われ、命まで奪われる。

動物たちは人間のように言葉を話すことはできないし、高度な論理的判断などもちろんできない。

だからといって人間と同じように痛みを感じないわけでも恐怖を感じないわけでもない。

仲間が次々と殺されるのを見て恐怖の声を上げるし、気が狂って自分の子を食べてしまうキツネなども確認されている。 基本的な感情は人間と同じだと感じる。

動物は人間に利用されるために生まれてきたのではない。 動物にも尊厳がある。 毛皮を着ている人のほとんどが、このような残酷な実態を知らないと思う。

知ってしまうと「もう毛皮はいらない」という人がほとんどではないだろうか。

また、毛皮を着ているからといってその人の人格が低いというわけでもない。

今まで現状を知らなかっただけ、関心が無かっただけのこと。

毛皮以外にも、人間の背後で動物が犠牲になっていることはまだまだたくさんある。 全部を一度にやめるということは不可能だ。小さなことからでいいと思う。

私も偉そうなことは言えない。出来ることを出来る範囲でやっていこうと。

まずは毛皮製品(ファー)を買わないということから始めることにした。

現状を知ってください。そして、考えてください。

今は動物愛護の問題からは少し距離を置いておりますが、このように逃げたくても逃げられず、人間の欲望のために残虐な形で命を奪われる動物たちのことを思うととても辛くなる気持ちは変わりません。
こう言う風に思うのは一体なぜなのか。苦しんでいる動物、逃げられない動物のことを思うと自分のことのように辛くなる。

いつも自分で意識している「今ここ自分、目の前の人・物ごと」。それだけが真実。「今ここありのままを受け止める」

実際に動物が生きたまま皮を剥がされているところを目の前で私はみたことあるのか・・・・。ない。
だったらネットや本で知ったこれらの情報は「今ここ自分、目の前の人・物ごと」ではない。「ありのまま」とはなにか。目の前に苦しんでいる動物が実際にいるわけではない。

「ありのまま」とは一体なにか。苦しんでいる動物、逃げられない状況・・・・知ったのは「文字情報」から

毛皮の問題について知ったのは主にネットが中心。「文字」情報から。つまりネット上で誰かが訴えた内容、言葉から得たもの。

相手の言ったことをありのまま受け止める・・・・。グリーフケア・スピリチュアルケアの話を聴く訓練でしつこく言われること。

ありのまま・・・・・文字情報をありのまま受け止めると、例えば「あ」という文字は3本の曲線から成っているということになる。「ゆ」は魚の形に似ている。

紙に印刷された文字はインクの跡ということになり、ブラウザ上では光の点滅。

単なる「音」や「曲線」。それらに意味を与えている。

「言葉」として身に着けてきており、人間同士共通の認識がそこにはある。だから単なる魚の形に見えるものが「ゆ」として「音」も「意味」も含んだ「言葉」となり人間同士の意思疎通が可能になる。

人間社会で共通した認識があるから言葉が言葉として機能する。そして同時に言葉に意味を与えているのは自分自身でもあるということになる。

だから私が動物愛護の毛皮問題をネットで読んだという状況は、単なるブラウザ上の光の点滅に、「読む」という行為をとおして脳が自動的に「意味を与えた」ということ。そしてその意味を感情が「辛い」という風に受け取り、目の前に動物がいるわけでもないのにまるで自分事のように心が動いてしまう。

「想像」の中で苦しんでいるということ。それは一体なぜか。

 

私自身が「今ここ自分」の問題から逃げているからではないだろうか。

 

ネットを通して、本を通して、ニュースを通して知る情報。

単なるノイズも多いが、心が乱され、しばらくの間頭から離れないという内容もある。

そしてそのほとんどが「どこか遠くにいる、知らない誰かの問題」

「どこか遠くにいる、知らない誰かが苦しんでいる」

「逃げたくても逃げられず、助けてほしくても誰も助けてくれない苦しんでいる動物」という形をとって、本当は自分を突き付けられているのではないか。

「どこか遠くの出来事」という形をとって「今ここ自分」に直面させられる。

結局、どこにいても何をしていても、いろんな形で「自分の問題」は表出し、逃げ続けたとしても追ってくるもの。

周りで起こる事象やニュースなどの情報によって心が乱されるのは、結局それは世界全体そのもの自分の心の映し出しであって、光の当たってない部分や癒されていない部分がその存在を訴えているということではないか。

 

人間のエゴのため、自己都合のために傷つけられ、命を奪われる状況。

苦しんでいるのに、自分で助けを求めることが難しい人がいる。

その存在を守ることができない自分を突き付けられる。

 

 

「その場にいなかった」時の方が多く、いろいろ聞いて知ってはいても見て見ぬふりをしてきた。

騒ぎ立てることで状況が悪化するかもしれないという不安もあり。

自己の欲求や不満のはけ口として弱い存在を攻撃する人間に、対峙する時なのではないか。

「あなたのやっていることは間違っている。それはおかしい」という勇気。

対峙はしたが、まだ半分。逃げられてはぐらかされてしまう。

これ以上は書けないですが、帰省するといろいろあるのです。

読んでくださりありがとうございました。