人として扱う・モノとして扱う。神様の道具なのか他人の道具なのか
人生のことを真剣に考え
ぜひとも人のために役に立ちたい、貢献したいという気持ちはとても尊いですね。
多くの人がこのような思いを持っていて日々社会活動をしていることかと思います。
しかし同時に思うのはそれが自己犠牲になっていて
自分は本当はしんどいのだけれども、
他人の望むように動くことが大事だからと
どんどん自分のエネルギーも時間も使い果たしてしまって
疲れ果ててしまっているのとは違います。
人を心ある人として扱い、大切にする。
同時に自分自身も心ある人として大切にすること。
まずは自分をちゃんと心ある人として扱うことで、他者への優しさが生まれます。
いくら他人のためとはいえ、自分ひとりで抱えようと無理するとしんどいですね。
休憩も必要、だれかに代わりを頼むことも必要です。
自分が他人をモノとして扱い、自分の欲を満たす。→利己的です。
他人が自分をモノとして扱い、他人の欲を満たす。→奴隷、自己犠牲です。
他人が自分を人として扱ってくれたら嬉しいですね。
自分が他人を人として扱うことで、その人が活きます。
神様は人間を心の無いモノとして扱うでしょうか。
神様の道具となるという言葉がありますが、これは他人が自分を道具として扱うということとは意味が異なります。
神様の道具として働くということの中には喜びがありますね。
日々の生活の中、いやなこともあるでしょうが
少しでも自分が心地よいと思える時間が取れるといいですね。
今回は短いですがこの辺で。
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