許せない人にごめんなさいを言えますか 髙木慶子先生の言葉

感性を取り戻す。頭の分析。他人の価値観。

1月13日、14日は宝塚にある黙想の家にて

上智大学グリーフケア研究所の教員研修があり参加させていただきました。

「あなたをいじめる方にごめんなさいを言えますか」

これはシスター髙木(髙木慶子先生)がある高校に講演に行かれた際、

一生をかけて考えていく課題として高校生のみなさんにお伝えしたそうです。

今回はこの言葉の意味を私なりに考えてみました。

あくまで私自身がこうとらえましたよということですので、人によって解釈は異なります。

私自身の課題でもあり、生まれてきたすべての人間が思いを巡らせることでもあるのかなと思いました。

「許せない人にごめんなさいを言う」ということですね。

許せないということは、相手から深く傷つけられた

大切なものを奪われたということを意味します。

 

あなたいじめる人に?」???

あなたいじめた人じゃなくて?」???

聞き間違いかなと思い、自分の取ったメモを見ました。

「あなたをいじめる人にごめんなさいを言えますか」

「苦しみをしっかりと歩き抜きなさいね」

と。

やはりそのようにおっしゃったようで、そのままの言葉を書いてありました。

一生考えていく課題ということだったので簡単じゃないということがうかがえます。

 

これは普段の意識でとらえてしまうと

「どうしていじめられる側が謝らないといけないんだ」

「どうして被害者側が悪いと言われなければならないんだ」

「どうして私を傷つけた人に申し訳なかったと思えるの」

ますます被害者側が孤立に陥ったり、自分を責めてしまったりとそこから進歩が無くなってしまうことにもつながる大変デリケートな表現でもあります。

しかし、「どうしていじめられる側が謝らなければならないの?」と

怒りの気持ちや、どう考えても理不尽という思い、

いじめられたことで傷ついた心や、だれもわかってくれないのかという孤立感など

自分の中でぐるぐるぐるぐると悩み、考え抜き、もだえ苦しむ過程の中で

答えを見つけていくのでしょう。

自分の中に苦境を乗り切っていく力や知恵があるのだと思います。

そうやって「いじめ」をはじめ誰かに傷つけられることに対して

どうにかやり過ごしたり対処したりすることはできるかもしれません。

自分が安全でいられるよう、行動を起こすことは可能ですし、

そのようなサポートも得られるでしょう。

 

しかし、「加害者にごめんなさいと言う」ことはなかなかできることではありませんし、

そのような気持ちになることなど一生無いかもしれません。

辛い経験から何かを学びとり、より一層人格的に成長することにつながった

だから加害者に「感謝はできる」という人はいるかもしれません。

それでも、あまりにひどい被害を受け、そのせいで人生に大きな影響があったわけで

それをきっかけに成長し、傷を負う代わりに多くを学んだのだとしても

加害者に感謝をすることはとても難しいです。

ましてや「ごめんなさい」とは人間としての意識ではとてもじゃないけど無理ではないかと思います。

人間の意識を超え、この世の真理だとか神様や創造主、宇宙の法則といった

そのような次元で物事をとらえ、さらには心の底からの変容がなければ無理でしょう。

人間の意識の中でぐるぐると問いを巡らせるだけでは頭だけの理解に終わるでしょうが、

神様や仏様といった存在からの働きかけがあって心が変容するのだと思います

そこまでに至る過程ではやはり、心の中でも「なぜ」「許せない」と、もだえ苦しむことが必要なのだと思います。

「私をあれだけ傷つけたあの人が許せない」

このような思いを抱き続けるのは苦しいです。

なぜ傷つける人がいたり、害になるような出来事が起こるのか。

私が捉えているのは、被害を受ける側と実は表裏一体、コインの表裏で、

自己の癒されてない部分を表面化するには「その人にとって傷つく体験」を通して行われるから、ということではないかと。

その役割をするのが、「加害者」と呼ばれる傷つける人というわけです。

加害者と呼ばれる人が「私のこの行為が人の気づきを促す役に立っている」などと

意識することはないでしょうが、

人と人同士のやりとりは自覚なしにお互いが鏡のようになっていて、

そのやりとりの中でひっかかるところや、傷つく部分というのが

「過去の傷つき体験の繰り返し」(これはよくあり、気づくことができます)

「元々持っている業」

「自覚はなかったかもしれないけど魂に抱えている傷」

というわけで、「傷ついた」という現象のように見えますが、

次元を超えた見方をすると「あぶりだされた」となります。

どうして「あぶりだされた」のかと.いうと

元々持っている傷を癒すため。

3次元の人間意識では心の見えない部分に傷を抱えていてもわからないのです。

傷つく出来事があって初めてそれがわかる。

自分は何に執着しているのか。

自分を大事にできない理由は何か。

本当の自分の望みは何なのか

本質に近づくため、痛い体験があるともいえるでしょう。

「あなた自己受容できてないよ」と言っているのです。

本当は他人がいるのではなく、

他人を通して出会っているのはすべて自分自身。

それが人の数だけある。

全員が人との出会いを通して「自分」に出会う。

だから外の世界というのは結局は自分の心の中を歩いているにすぎないので、絶対安心なんだけど。

傷つけられたというのは、自分が自分を傷つけていたということと同じ。

 

このように思えたら心がらくになるかもしれませんが、

次元を超えた働きがないと、理性で理解はできても感情がついていきません。

他人を通して自分が現れると言っても、全くそんな実感なんてないわけで、

他人は他人だと思って生きていくのが人生。

 

誰かに傷つけられると、多くの場合は相手を恨んだり、逆に自分を責めたりしてしまいます。

堂々巡りの「問い」を抱え、ますます「許せない」という思いを抱いてしまうは当然のことです。

無理に許そうとすれば「自己不一致」になってますます苦しくなるでしょう。

形だけ許しても心の中の「本当は許せない」という思いは

さらに自分を苦しめる症状になって身体化したり、

また「許せないと思う出来事」に出くわしたりと逃げても追いかけてきます。

許せなかったら許せないままでいることを自分に許す。

心を見つめていく過程で

やっぱり許せないかもしれないという気づきがあるかもしれませんし、

感謝できるようになるかもしれませんし、

さらにはごめんなさいと心から思える日が来るかもしれません。

私にとっても許せない人にごめんなさいを言うという課題は一生抱えていくものだと思っています。

真の意味で自己受容ができたとき、はじめて受け入れることができるのかもしれません。

以上、私なりの現時点での理解です。あなたはどう思いますか?

読んでくださりありがとうございました。

コメントを残す