心を開くということ。大切にしているものを分かち合ってくれた話。

今日は私の体験談です。

こちらの記事「「深い話」ができた、という時の「深い」の意味は?

の内容とも重なるのですが、人と話をしていて心が通じ合う時というのは、

話しの内容の難しさ云々は全く関係ありません。

むしろ、相手が私に対して心を開いてくれて、大切なものというか、その場で感じている素直な気持ちを表現してくれている時、本当に豊かな時間を過ごさせてもらってるなと思うのです。

そして、それは受け手側の私自身、心が開いていないと受け取れないよとも思うのです。

私も含めて、スピリチュアルな探求にハマっていると、

真理をより深く探りたい、もっと深くもっと深く、となりがちです。

深く探求するうちに、色々な宗教の本を読んだりして知識もどんどん増えていきます。

そして「スピリチュアルや真理について、深く語り合える場に身を置きたい、そういう場で活動したい」と思うようになります。

みんながみんなそうではないでしょうが、そういう人が多いかと思います。

私も探求自体大好きです。

それ自体は何の悪いこともありませんし、探求活動自体が本当に楽しいです。

生きる力もわいてきます。

 

「〇〇について話したい、語り合いたい」

「〇〇について学びたい」

という時、

それは「〇〇について」の〇〇という対象があるのですね。

 

でも本当の幸せ、悟りどこにあるのかというと、本当にシンプルな「今ここ」にしかないというか。

それは対象化できません。

また、「スピリチュアルな真理」について誰よりも詳しく知っているということよりも、そんなこと何にも知らなくてもすでに「それ」を生きている人も大勢います。

どれだけ心が開いているかということ。

目の前の相手と心で通じ合っているかということ。

このことを発見したのは、やはりあの28歳の時の入院中。

3人目の子を亡くし、私自身も生死をさまよったあの体験の時。

ほんっとうに素直な心で、家族とも、病院の人たちとも、やりとりができたのです。

「あれ?今までってこんなにらくにしゃべってたっけ?」

相手に対して自然な気遣いができる。

気遣いというか、心を配れるというか、自分の中の優しさを素直に表現できるというか。

以前の私は、相手がどう受け取るかよりも、自分がどう思われるかを気にして、コミュニケーションを取っていたと思うのです。

だから過剰に気を使い、それが取り繕いになっている状態。

一見それは相手を思っているようで、自分を守るためのコミュニケーションになっていました。

自覚はなくても心の奥ではしんどさを感じていたことでしょう。

だから、上辺のやりとりはうまくいっていて、何の問題も無く見えても、心が閉じているから気を使って疲れるのです。

気を使う=自分のエネルギーを浪費するということ。

心が開いていたら、同じやりとりでも、エネルギーを浪費することはなくて、気が循環するので、疲弊することはありません。

(ちなみに、今回気を使うという表現を調べてみましたが、

「気を使う」と動詞で表す際は「使う」

「気遣い」と名詞で表す際は「遣い」の漢字を使うそうです。)

 

初めてこのことに気づいたのは生死をさまよった「非日常」であり極限状態の時でした。

しかし本当はそれが最も自然なことなのですね。

極限状態だったからこそ、どうでもいいような自分を守るための取り繕いが取っ払われたということでしょう。

 

日常を送る時にも、心を開いてコミュニケーションができていたら、しんどさが全く違ってきます。

他人に対して心を開くことが難しい、どう思われるか怖い、という人は、まずは自分で自分の気持ちを受け止めることからです。

「あんな気持ち感じたらだめ」

「こんなこと思う私は人格的におかしい」

このような思考があるために、本当の気持ちを心の奥に追いやって、感じていないフリをするとどんどんしんどくなっていきます。

醜い感情があるからといって、自分を責めなくていいんですね。

でも責めてしまうのなら仕方がない。

責めてしまう自分もいていいんです。

受けとめられる時期が来たら、それを受け止めて成仏させてあげる。

それは自分に対しての愛です。

自分に優しくするほど、他人にも優しくなれますし、他人からも優しくされるようになります。

心を開いて人と接することができるようになるには、まずはやっぱり自分が自分に対して心を開いていることが大前提です。

まあこうやって書いていても、私自身閉じている時もまだまだあります。

死にかけて「あ、わかった」という気づきがあっても、ある程度は元に戻るので。

昔よりはずいぶんと心が開けるようにはなっていて、生きやすさも増していますが、閉じてる時があるからといってダメなのではなく、それはそれでそういう時もあると、自分に優しくしたらいいと思います。

 

そして、心が開いているかどうかというのは、その人の頭のよさや能力とは関係ありません。

ここから私の体験になります。

私は4人兄弟の長女として生まれました。

生まれた時からは父、母、母方の祖母、母方の叔母が同居していました。

叔母は知的障害があります。

叔母が生まれたのは戦時中。

叔母は生後1歳で思い病気にかかり、命を取り留めたものの、脳性麻痺の後遺症が残ってしまったのです。

それまで立つことができていたのが立てなくなり、1歳になって言葉も少しずつ話せていたのが忘れてしまったらしいのです。

同時期に祖母は叔母の父である最初の旦那さんを戦争で亡くします。

祖母は気丈な性格でしたが、その時は電車に飛び込んで死ぬことを考えたほど辛かったそうです。

その後職場で知り合った人(私の祖父にあたる)と再婚し、叔母の10年後に母が生まれます。

(私が生まれた時、母が24歳、叔母が34歳、父が28歳です。)

そんな背景があり、叔母も一緒に住んでいました。

叔母が歩けるようになったのはなんと6歳の時だそうです。

脳性麻痺の後遺症なのか足を引きずるような歩き方ですし、言葉も不明瞭です。

言葉を発しても、とても聞き取りにくいので、家族以外の他人が理解するのは困難なことが多いです。

知的障害のレベルは60代の頃だったか、IQ検査で30くらいと言われました。

今は高齢になって介護が必要になってきましたが、若い頃は近所への買い物、洗濯もやっていました。

字も書いていました。

でも知能は幼児なみなので本当に簡単な会話しか理解できませんし、とても忘れっぽかったです。

実は子どもの頃は叔母とは仲が悪くてよくケンカしていました。

18歳からは大学進学のため実家を出たので、年に2回ほど帰省した際に会う程度になりました。

私が18歳ということは当時叔母は52歳、そこそこのおばちゃんですが、それから私は結婚出産を経て今に至り、叔母もだんだん老化が進み、今はもう78歳。

昔出来ていたこともだんだんとできなくなり、70代半ばくらいから会った時に叔母の老化を感じ、こうやってみんな弱って死んでいくのかと寂しい気持ちにもなりました。

昔の若くて元気だった頃とは違い、使える能力も低下していき、変わっていく姿を目にするのは本当に切なくなるのです・・・。

 

年に2回(コロナだから減ったけど)、両親もそうですが叔母の姿を見に帰省するのは本当に貴重なことだなというのが、ここ数年私が抱いている思いです。

しかし、いざ帰省すると同じ時期に近所に住んでいる甥っ子姪っ子もいるので、子守をすることが多くてなかなか叔母とゆっくりできる時間が持てないのです。

そして夫も一緒なのでせっかくだからどこか温泉にでも行こうという話になり、出かけることになったりする。

叔母の姿を見る時間はあっても、話す時間がほとんどなかったりして、高齢でいつ死ぬかわからないのに(すごい言い方ですが)ちょっと話をする時間は取れないものか・・・と思うこともしばしば。

数年前に帰省した際も、実家だからゆっくりできるわけでもなく、やはり子守子守でそれはそれで可愛いから良いんですがバタバタと忙しくしてました。

「大阪におるより忙しいやん(>_<)」

甥っ子姪っ子が自分たちの家に帰ったある夜のこと。

明日私たちも大阪に戻らないといけないという日、叔母の部屋に行くと、叔母は何枚もの白黒の写真を見ていました。

赤ちゃんの頃の叔母や、祖母、母、親戚、そして叔母の父の写真です。

叔母が赤ちゃんの頃にお父さんは戦死しているので、記憶にはないはずですが、叔母にとって父親の存在は本当に大切なのだということが伝わってきました。

おそらく、子どもの頃から祖母が何度も何度も叔母に話したのだと思います。

叔母に話しかけました。

私「みっちゃん、写真見やるん?」

叔母「おお!これ、みちよのとうちゃんや!」

私「ああ、そう!」

とにこにこしながら叔母が写真を見せてくれました。

その瞬間、本当にこの何でもないやりとりができたことを心から嬉しく思ったのです。

同時に泣きそうになりました。

「ああ、良かった!」と。

数日間の帰省で、忙しくてなかなか時間が取れず、大阪に帰る前日やっと顔を合わせて話すことができたその一瞬。

文字にしたら何でもない会話なのですが、心が通じ合ったのがわかった瞬間だったので、本当に嬉しかったのです。

叔母にとって、父親の存在が本当に大事で、写真もものすごく大事にして毎日毎日見ている(と母が言っている)。

その大切にしているものを、本当に嬉しそうに私に見せてくれたということ。

なんでもない会話がこんなに豊かなものだったとは、と。

 

今回の内容で言いたかったのは、今ここで心が開いている状態というのは、その人の在り方そのものであって、能力や才能、そこで話されている会話の内容は全く関係ないということ。

そして、相手の心が開いていても、それを受け取れるかどうかは、自分次第なのだということ。

極端な話、受け手である自分の心が常に開いていたら、相手の言動がどうであれそれもまた、「開いているもの」として受け取ることができるのです。

私の場合は、まだその時その時によって閉じたり開いたり。

開く感覚が続いたら・・・・。

全てをありのままに受け止めることができるのでしょう。

自分と世界に対して、ウソを無くしていくことでそれが可能になると思っています。

 

今日もお読みくださりありがとうございました。

 

 

 

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