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死に近づくにつれ業の解消が進んでいく

肉体の死が近づくと業の解消も進んでいくように思います。

人間は生きている間にももちろん業は解消していくものですし、逆に心の中に執着として保持し続け、蓄積される場合もあるでしょう。

死を迎えるというのは業の解消がずいぶん進んだ状態ではないかと思います。

自分の中に溜まったものを浄化して、旅立っていく。

業の解消というのは、イヤな出来事を通してそれが行われることも多いですね。

課題を克服するということですから、自分の中の心の傷やいらない執着から自由になるために、イヤな出来事を通して抱えているものを体験し、浄化します。

同時にその試練を耐えられるよう、癒されるよう支えてくれる存在が必ずそばに現れるでしょう。

単なる個人という神や仏からはかけ離れた存在のように思える一人の人間かもしれませんが、全員が源である神や仏とつながっていて、そこに戻っていくのが死と言えましょう。

死が近づいてきたら、人間の自我である部分がだんだん少なくなって、神や仏といった次元に心が開けてくるように思います。

その人にとって「イヤなこと」が起こってしまうのは、業を解消する働きがそこに現れるということなので、それはある意味避けられないとも言えます。

その人が心の奥で抱えている痛みを解消するには、イヤな出来事が起こらないと解消のしようがないからなのですね。

ですから、イヤな出来事が起こったとしても誰かその試練を支える人が現れ、寄り添うことでその人は癒され、心が浄化されていくのでしょう。

出来事を通して業が解消される場合もあれば、スピリチュアルケアなどの対話を通して業の解消が進む場合もあるでしょう。

イヤな出来事というのは過去の心の傷と重なる部分が多いかと思いますが、対話を通して心の傷に向き合い、誰かに聴いてもらって受け入れられる体験を通し、イヤな出来事を体験せずとも業の解消が進むのではないかと思います。

自分を受け入れた分に比例するように神や仏といった次元に心が開けていくのだと思います。

以前からこのように思ってはおりましたが、高齢者の施設で働くようになって、肌身で感じております。

スピリチュアルケアにずっと関わってきた者として、相手とそういった次元を繋ぐパイプみたいな役割であり、そうあるためには私自身も自我から離れ、無心になることが大事なのだなと思いました。

しかしこれも相手あってのこと。相手の心がまずそのような次元に繋がる段階・そこまで浄化されていないと私を通して神様や仏様からの愛や慈悲が感じられることはないでしょうし、そのような状態にすでになっていれば、私がいなくてもつながっているということになります。

逆に私自身が日々の研鑽を通して、心を浄化させることが相手に関わる際に相手の最も神聖な部分を映す鏡となるので、これもまた自分のためでもあり相手のためでもあるといえます。

コインの表裏。相互依存の関係ですね。

今日も読んでくださりありがとうございました。

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