これは私自身の話です。
深い話を通してその人の心に触れさせていただく体験というのは本当に貴重で、私にとってありがたい時間であります。
仕事や活動自体、好きなものもあればそうでないものもあります。
内容はそれほど好きではなくても、人の会うのが楽しみだから続けられるという体験をしています。
今もパートで介護施設に行っていますが、コミュニケーションが好きだからという理由でやっています。
排泄介助が好きで排泄物の臭いを嗅ぐのがたまらく快感という人はめったにいないと思いますが(笑)、やはり臭いは苦手ですし、吐きそうになることもあります。
幸い無理せずに自分自身でいられるのが介護職であり、それもグループホームというゆったりした環境ということが大きいです。
それから「今日は〇〇さんと一緒に働けるのか」とその職員の人と交流できる楽しみだったり、利用者さんと話すのが楽しみだったりと、誰かに会いに行くという感覚で仕事に行っています。
思えば英語講師時代も、お昼休みに同僚の先生たちと話すのが楽しみでした。
家では一人の時間が絶対に必要なタイプですが、人との交流も好きで、これは一体いつからかな?と思いました。
幼少期から学生時代はおとなしいことを注意されることが多く、友達とわいわい騒ぐのが苦手でした。
自分でもおとなしい、内気だと思い込んでいたためか、心の奥では人が好きだったのにそれに気づかず、自分に対するイメージが邪魔をしてかなり控えめだったように思います。
内気というより口数が少なく、本当に言いたいことしか言えないタイプで、その場を取り繕うために内容のない話をしたり、人に媚びを売ったりができないだけだったように思います。
高校生くらいまでは不平不満も強く持っていたので、勉強を頑張っており、特に英語は自分のアイデンティティといえるくらい毎日練習に励みました。
その甲斐あって大学は似たような境遇の子たちと出会い、今もご縁が続いています。
当時一番大事にしていたのが英語であり、その自分でいられる場に出会えたのが大きいです。
5歳から習っていた英語でしたが、英語を大事にしている自分を表現できる場というのは少なかったのです。
英語の勉強も楽しいときもあればめちゃくちゃ負担に感じてやる気が無くなる時もあり、好きな教材嫌いな教材色々あります。
それでも当時私の全てだった「英語を頑張っている自分」でいられる場に出会えたのはとても嬉しいことであり、大学時代は本当にいいクラスに出会えたため、だんだんと人が好きと思えるようになってきたように思います。
2007年28歳の時に劇的な気づきの体験をしますが、その時の気づきの一つに「心を開いていない」というものがありました。
振り返ってみるとそんなことはないのですが、大学を卒業してしばらくは外との交流も少なくなってしまったことも影響していたのでしょう。
肩書や職業といった役割としての自分ではなく、一人の人間として接してくれる人との関係は本当に貴重です。
役割の自分でいると、その役割で求められる〇〇像にならなくてはいけないため、本心がわからなくなり、気が付いたら周りの人に対して心が開けなくなっていることもあります。
子ども時代は自分に対して「私はおとなしくて内気」というイメージを持っていたため、それが自分だと思い込んでいて、実際人見知りで緊張することも多かったのですが、大人になったら人好きになっていたという話でした。
今日もお読みくださりありがとうございました。