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スピリチュアルケアの個人面談。「登場人物が少ない」と言われて気づいたこと

「出会い」と感情の自己開示

の内容ともちょっと関係する話になります。

 

上智大学グリーフケア研究所に通っていた時の個人面談における気づきです。

もともと28歳の時の死産の経験がきっかけで研究所で学ぶことになりました。

しかし実際に自己を深めていくには、そのこと以外にも幼少期からの生育歴を何本も書いたりと、自分を知る訓練が続きます。

 

大学時代の恋愛で傷ついた出来事をレポートに書きました。

 

おもに18歳から20歳くらいまでの体験です。

 

このことについて個人面談を受けました。

 

2013年のことなので当時34歳です。

 

先生からのフィードバックは

「登場人物が少ない」

 

「何年前?12、3年以上の間で、語りに出てきたのはほんの数人。」

 

「・・・ぽつ・・・・・ぽつ・・・・・と。」

 

 

この時、聴いていただいて、私のことに関心を持っていただいて、とてもありがたかった気持ちを感じているのに、なぜか暗いものを心の中に感じ、帰宅したのを覚えています。

 

 

気づきに至るまで少し時間がかかったように思います。

 

「登場人物が少ない」

 

 

この言葉から、孤独であることを突きつけられたといいましょうか。

 

 

「孤独」

 

 

ほとんど誰にも心を開かずに生きてきたことをまた気づかされたのです。

 

また気づかされた、というのは2007年の宗教的体験の際、最初は宗教的、哲学的内容のインスピレーションが降ってきたのですが、

途中からその内容が変化し、個人的な心の闇に直面させられたのでした。

 

関連記事:14. 神秘体験 とうとう鎮静剤を・・・

から引用します。

記憶が定かでないので、前後するが、

私の場合「人見知り」が罪ということ。

誰しもこのように「罪」を抱えて生まれてくる。

 

「なんで人見知りが罪なん?」

「罪なんて知らんかった!」

ものすごい罪悪感を感じる。

私は今まで生きてきて、

本当の意味で人と心を通わしたことが

なかったのかもしれないという

気づきとそれに対するものすごい罪の意識。

地獄に落ちる感覚。

いろいろあったけど、

自分では普通に善人として生きてきたと思っていた。

けど、誰にも心を開かずに

(実際はそんなことはないのだけど、少なかった)

生きてきたことが

 

こんなにも罪になるなんて、知らなかった。

「無知は罪」

「慈悲の心が大事」

口からそんな言葉が出た。

「慈悲」なんて言葉普段使ったことなんてないのに。

 

2007年の気づきを言語化するとこんな感じになります。

 

「人間として生まれて、生きることの意味は、いかに感情を震わせるか。

 

心を開くか。

 

真実の世界では個人などなく、全てが一つ。

 

私もこの人もあの人も、一つのいのちの現われ。

 

本当は他人などいない。

 

全てが自分。

 

人が怖い、信頼できない、それは自分自身を信頼できないということ。

 

だから誰とも心を通わせることなく、壁を作り自分の殻に閉じこもる。

 

何かを感じていても、その感覚を自分で感じないように麻痺させる。

 

表面上は何ごとも無かったかのように、平気なフリをして、常識的でまっとうなフリをして、観念上の理想像に自分を当てはめる。

 

心の底からの喜びを感じることも無く、

 

人生の辛い時に、本当に助けが必要な時に、誰にも頼らずにやり過ごすのか。

 

そんな危機的な時にこそ、人の温かさ、優しさ、強さが身に沁みるのに、それを拒否して生きていくのか。

 

受け取らずに生きていくのか。

 

また自分からも与えることなく、心の距離が遠いまま、他人と表面上のやりとりだけを続けていくのか。

 

それって『生きている』と言えるのか?

 

 

・・・・28歳の時の時の気づきを言語化するとこんな感じ。

 

 

そうは言っても、目の前の相手を信頼し、心を開いて接することが大事、と今ではわかるのですが、過去の自分に気づかせることなんてできないのではないでしょうか?

 

過去の私は私で、それなりに心を開いて生きていると思っていたから。

 

だから生死をさまようような危機的状況だったり、ケア提供者の訓練で、強制的に自分を見つめることをしなければ、心が閉じているなんて気づかない。

 

思い返してみると、「良い子ちゃん」で人と接する時は心が閉じていることが多く、感情があふれて泣いたりする時は心が開いていたのではないかと思います。

 

酷い扱いを恋愛では受けていたのですが、その時によく泣いていて、それはつまりその相手に対しては心を開いているということで、「辛いと同時に好き」でした。

 

唯一、自分の感情を正直に出して接していたかな?と思うのですが、相手は私の気持ちを受け止めることはありませんでした。

 

 

今思えば「共依存の関係」です。

 

学生時代、同じ大学の男子は優しく、誠実な子が多かったのに、友達関係にはなっても恋愛関係にならず、付き合う相手はみな社会人でした。

 

 

他人は自分の心の反映と認識できている現在、当時いかに自己否定が強く、自己肯定感が低かったのかが自分でもわかります。

 

自傷行為だったのでしょう。

 

 

「登場人物が少ない」

 

 

それは心を閉ざして生きてきたという気づき。

 

 

そしてまた「心を開いて生きていくのが良い生き方」と深い部分で思っているのだな、という新たな気づき。

 

だから孤独を感じたし、心を閉ざしていることに罪悪感を感じたのですよね。

 

心が閉じているのがダメで、開いているのが良い、というのも一つの価値観です。

 

確かに、人生はゲームとも言われていますし、心を開いて、「何が起きても大丈夫」と全幅の信頼の中で生き生きと生きていけたら、「生きている実感」を感じるでしょう。

 

らくに生きていけますし、接する相手からも心を開いている方が喜ばれることが多いです。

 

でも、心を閉ざして、人への不信感と自分への信頼の欠如を抱えながら生きるのもアリかと。

 

本来は制限などないのがこの世であり、制限は自分の心が作っている幻想ですが、

その幻想の中で、不自由に苦しみながら生きていくのもまた、人間として生まれてこなければ経験できないことです。

 

 

苦しみを感じることは人間だからこそ、できる貴重な経験。

 

それはそれで良いのでしょう。

 

 

でも私は不自由な制限を取っ払い、できる範囲で心を開いて、自由に生き生きと生きていきたいと思います。

そして心を開くことは、スピリチュアルケア提供者として必須です。

 

 

今日もお読みくださりありがとうございました。

 

 

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