突然の死であれ、病気や老衰などある程度予想できていた死であれ、自分にとって大切な人がこの世からいなくなるのはとても辛く、寂しいことです。
大切な人がどのような亡くなり方をしたのか、どのような人生を歩んできたのか、亡くなる直前はどんな様子だったかによって、心に抱く思いや悲嘆の度合いも異なってきます。
どうして今いなくなってしまったの?
どうしてあなたが死ななきゃならないの?
こんな理不尽なことが起こっていいわけない。
どうして私の大切な人が・・・。
どうして誰も助けてくれなかったの?
どうして私を頼ってくれなかった?
あの人が亡くなったのは〇〇のせいだ。
このように、死の原因にもよりますが、死自体が受け入れられない、納得いかないという苦しみを感じる場合もあります。
故人がその人の人生を、いのちを輝かして生ききることが出来なかった。
生きている時にとても辛く苦しい状況にあり、少しも幸せそうでなかったという場合やるせなさを感じます。
あるいは生き生きと生きていて、これからもっと人生が開いていくという希望に溢れていた時に、突発的な事故や事件に巻き込まれいのちを落としたという場合も、残された者はとうてい納得がいかないという気持ちを抱きます。
もっと生きていてほしかった。そして幸せな人生を満喫してほしかった。でもできなかった。
このような思いも同時に抱くこともあります。
亡くなったのは辛いけど、同時にほっとした。
今まで辛かったね。やっと苦しみから解放されたね。
心の中にはさまざまな感情がうずまき、ある時は「怒り」「悔しさ」などが意識の表面を占め、また別の時には「理不尽さ」「どうしようもない絶望」などの感情が出てきます。
悲しみや寂しさの度合いが強まったかと思えば、ほっとした気持ちを感じて一時期は落ち着きを取り戻したかのように思っても、そう感じたことで今度は自分に対する罪悪感や自責の念が強まったりもします。
自分にとって大切な人を亡くすということは、人によっては生きる意味も同時に失われ、「本当のところ私も後を追いたい」このような思いを抱く方も多いです。
状況は人それぞれで、たった一人の家族を亡くし、物理的にも一人になりより一層孤独を感じる場合もあれば、残された家族の世話などもあり、自身の悲しみとゆっくり向き合う余裕もないまま、大切な人が亡くなった実感を持てないまま数か月、数年を過ごされる場合もあります。
このような悲嘆の状態はいつになったららくになるのか、答えがありません。
大切な人の死を受け入れられない、納得がいかない・・・・。
その「納得がいかない」という気持ち自体はもしかすると死別の悲しみとは別のことが関係しているかもしれませんが、死別がきっかけとなって表出されることは多いです。
色々な出来事が折り重なり、複雑に絡み合って、心の中がかき乱されます。
大切な人が亡くなったという現象自体は外の世界で起こっていることですが、その悲しみ、苦しみを感じているのは自分の心です。
自分の中にある、悲しみ、苦しみ、後悔、納得のいかない思い、理不尽な思い・・・・。
結局その自分の心に向き合うのは、自分しかできないことでもあります。
他者が代わりに向き合って、苦しみを取ってくれるわけではありません。
しかし、他者のサポートを得ることで自身の悲嘆に向き合う作業が、一人でやるよりもスムーズにいく場合がありますし、誰かが支えてくれていると思えるだけでも、全然違います。
悲しみが無くなるわけではないですが、話せる場があるということだけでも、らくになるという方は多いです。
こちらのHPでは関西にある遺族会を検索することができます。
どなたを亡くされたか、開催日程、開催場所など、ご自身の状況に合わせて選ぶことができます。
>>>>関西遺族会ネットワーク
ほとんどがボランティア団体で、参加費も安いところが多く、継続して通いやすいかと思います。
団体によっては、スタッフが当事者である「セルフヘルプグループ」と、スタッフが当事者であっても無くても専門的に訓練を受けている「サポートグループ」があります。
このような「遺族会」という場があって、そこで話を聴いてもらえるという情報自体がまだまだ知られておらず、今後必要な方に届けることが課題でもありますね。
以上読んでくださりありがとうございました。