新元号「令和」。万葉集に見られるスピリチュアリティ
先日4月1日に新元号「令和」が発表されました。
30年間続いた「平成」、みなさんにとってどのような時代だったのでしょう。
さて、「令和」は万葉集「梅花の歌三十二首の序文」が元になっているとのことでした。
大伴旅人を中心としたに仲間が大宰府で正月に宴を開いたときに詠まれたものだそうです。
万葉集におさめられている歌はまさに「スピリチュアリティ」を感じさせるものが多く、昔の人間も今の人間も感じていることはそんなに変わらないのだなあとしみじみ思ってしまいます。
以下の本「対話・コミュニケーションから学ぶスピリチュアルケア―ことばと物語からの実践」にも万葉集におけるスピリチュアリティについて谷田憲俊先生という方がコラムを書かれています。
※谷田憲俊先生の背景:山口大学大学院医学系研究科医療環境学教授(2011年)
「対話・コミュニケーションから学ぶスピリチュアルケア―ことばと物語からの実践」から
p.11 「万葉集のスピリチュアルケア(1)—山上憶良のスピリチュアル・ペイン」とあります。
「士(おのこ)やも 空しかるべき 万代に 語り継ぐべき 名は断てずして」
谷田先生によるとこの歌の意味は
「男たる者、空しいけど万代に続く世に、語り継がれるべき名も立てないでよいものだろうか(いや、名を立てるべきである)」と読み解かれる。
しかし筆者はそれより「死にたくない、やり残したことがある」と謳ったと解したい。
すなわち、憶良のスピリチュアル・ペインの発露と捉える。
世間一般の現代語訳では「いや、名を立てるべきである」と解釈されているらしいが、谷田先生が捉えたのは「死にたくない、やり残したことがある」というまさにたましいのうずき、スピリチュアルペインであると。
名声を得るという他者に評価・称賛され後世に名を残すことについて言っているように一見思えるが、実はそうではなく、自分のいのちをもっと生きたいという意味ではないのかと。
字面だけ見ると立派になって後世に名を残したいという意味に捉えられるのかもしれませんが、この歌が詠まれた背景を調べると、山上憶良は長い間病にかかっていて、もう回復の見込みがないと自分でもわかっていたとのことです。
本当の意味は作った本人の山上憶良にしかわかりませんが、感性を研ぎ澄ませると「伝わってくる」のかもしれません。
この本には全部で3つ「万葉集のスピリチュアルケア」と称して谷田先生のコラムが掲載されています。
p.67
万葉集のスピリチュアルケア(2)―言葉に出すのが日本文化
p.139
万葉集のスピリチュアルケア(3)―死を見越したスピリチュアル・ペイン
このブログでは紹介しませんので興味のある方は本をご購入ください。
対話・コミュニケーションから学ぶスピリチュアルケア―ことばと物語からの実践病院におけるスピリチュアルケアはもちろんのこと、トラウマや子どもの教育現場、瞑想、歯科医師によるスピリチュアルケア、芸術療法、内観療法など、第一線実践されている方々の貴重な事例が豊富です。
山上憶良の「沈痾自哀(ちんあじあい)文」には文化論と宗教論、さらにはスピリチュアリティ論が披露されているとのことで、山上憶良を通して現代人とも通ずるような当時の人間の苦悩や悲哀を感じることができるかもしれません。
新元号が人間のこころを謳った「万葉集」が元となったというのは大変興味深く、さっそく万葉集を味わってみたいという人が多いのではないでしょうか。
私は詳しくないので今回はこの辺で。
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