2013年執筆記事です。
生死をさまよった際に体験したいわゆる
「神秘体験」「宗教的体験」「覚醒体験」「一瞥体験」「変性意識」と呼ばれているスピリチュアル体験からの気づきです。
インスピレーションが勝手に降ってくる、心の中にわいてくる状態でした。
当時の感じた感覚そのまま書いています。
人はみな叡智につながっている
人はみな、無意識レベルで叡智と繋がっています。
普段はなかなかそれに気がつきません。
他人が言った一言が妙に腑に落ちたり、
気になるというとき、
それは元々自分の魂が知っていたことを
その人の言葉によって思い出したということかもしれません。
他人に言われてはっと気づくとき、
「アハ体験」をするときは魂の声かもしれません。
考察:人はみな叡智につながっている
お釈迦様の言葉「自灯明・法灯明」
1の記事にも書きましたが、
①人生に不幸はない。スピリチュアル体験からのインスピレーション
人間はみなこの世、3次元での存在でもありますが、同時にスピリチュアルな次元の存在でもあります。
スピリチュアルな次元は普段はなかなか感じることは難しいですが、
ふとした時にその世界を垣間見たり、感じたりします。
本当は3次元のこの世そのものもスピリチュアルな次元と言ってもいいのですが、人間がつくった物質や人工物、
この世の価値観ばかりに意識の焦点が合ってしまうことよって、その背後にある次元の存在を感じにくくなっています。
スピリチュアルな次元というのは普遍意識・全体意識のことですが、
神様、仏様と呼ばれていたり、創造主、宇宙、サムシンググレート、タオ、などとも呼ばれています。
人間の頭では理解できないほどの叡智を備えているとされ、スーパーコンピューター以上のものとされています。
ですので宇宙の動き、天体や惑星の軌道から地球の気象、
自然法則、動植物の生命の営み、人間の行動、
考えること感じることすべてが宇宙の秩序のもと、寸分の狂いなく完璧に動いています。
人間の心もそのような存在次元とつながっています。
ですので、この世ではこの世のことに焦点が当たり、背後のはたらきについてはキャッチしにくいのですが、
感覚が鋭くなった時に感じることがあります。
自分のたましいからの気づきには「揺れ」が伴い、妙に心に残ったり、忘れられない体験になるでしょう。
また、自分でも無意識のうちにスピリチュアルな次元につながり、言葉を発していることもあります。
なにげなく発した言葉が、受け取った相手にとって気づきを促したりもします。
人間みな気が付かなくとも、そのような次元に常につながっており、
必要なメッセージがその人の元に届くよう、誰かの口を借りたり、
本の文章やネットの情報だったりという形を取るということも多いです。
また何かを学ぶ時というのは、
学校の教科書や先生、授業といった外からのものから知識を得ていると思いがちですが、
その知識が自分の身になるというのは
実は自分の中のたましいが宇宙の叡智につながるからであり、
もともと「知」が自分の中にあったということでもあります。
元々あるから「理解できるし身につく」のです。
得手不得手は個人差がありますし、身体機能・脳機能的にブロックがかかっていて「知」が表に出ない場合もありますが、全員が叡智につながっています。
結局、学問であれ宗教的な叡智であれ、自分の中にすでに「答えの種」みたいなものを有しており、
それが育ってくる段階というのは
自身の体験から心を探って知ることもありますし、
本だったり誰かの講演だったり、そういった外からの知識として学び、自分のものとするのでしょう。
外から学んだという形を取りますが、「この考えはおかしい」「この考えはその通りだ」
などと考えを巡らせ、結果気づきが訪れそれを自分のものにするというのは
すでに自分の中にあったものを引き出しているに他ならないということです。
例えばこのブログに書いてあることで読者の気づきをうながし
「そうそう全くその通り」と思うのであれば
それは読んだ人の心の中にすでにあってそれが表現されていたということになります。
つまりブログの記事を読んで新たなことに気が付いたという解釈をするのがこの世的な見方ですが、
本当は読者の中にすでに気づきがあって、それと共鳴するような記事によって引き出されたということで、答えは読んでいる人がすでに持っていたというわけです。
天文学、数学、量子力学や素粒子物理学、キリスト教や仏教の教えなど
私自身理解したくても理解が追い付かない事柄がいっぱいあります。
理解できるようになったという段階が来るということは、
個としての人間の限られた理解から、もっと深い次元のスピリチュアルな次元へ意識が移行、
外から入ってくる知識や情報に対する主導権を取り戻したというか、
やはり自分の中にすでに答えがある、あるいは自分が答えや意味を作っているということ。
仏教の「自灯明・法灯明」
「自らをともしびとし、自らをよりどころにせよ」という意味と共通しています。
今も仏教の例を出していますが、これを読んでいる瞬間がまさにそれですね。
いかにも外から学んだように見えますが、このことでさえも自分の心の中に答えがあったということになります。