本当の生き方をしたい。
エゴ重視ではなく、たましいの喜び重視で生きていきたい。
他者が本当の意味で「生きる」ような関わりを仕事にしたい。
よく言われるのが「宇宙の流れに沿った生き方」をするということ。
心理学の用語でいうと「自己実現」。
ゲシュタルト療法では「オーセンティックセルフ」。
宇宙の流れというのは自然な生き方とも言えるでしょう。
虫のように、鳥のように、花のように、他のものになろうとするのではなく、自分に備わった「自然」に従ってただ生きること。
しかし宇宙の流れに沿っているのか、逆らっているのか、どうやったらわかるのでしょう?
「あの人からの誘い、私にとっての導きかもしれない」症候群
もう10年以上前になりますが、自分の使命を生きたいとの思いで色々な本を読みふけっていました。
その中に、
「頼まれごとを断らずにやっていくとそれが使命になっていく」という内容が書かれてあるものがありました。
内容は素晴らしく、書いてあることは本当にその通りだと思うのですが、それは「その段階まで来た人」にのみ通用するのですね。
今思うと頼まれごとをやってそれが通用するのはあるある程度の意識レベルまで来ていないと無理なのです。
ある程度のというのは、人生のおおむねを自分軸で生きている段階です。
頼まれごとというのは当然自分の身の丈に合ったものしか来ません。
不完全ながらも、「この道でやっていくんだ」という芯みたいなものがある程度できている人の場合はOKかもしれません。
「この人の本当にやりたいことはこれなんだな」と分かってくれる人から「こういう仕事があるんだけど」と紹介されることもあるでしょう。
しかしそもそもずっと他人軸でやってきて、自分の感覚よりも他者や世間の価値観を優先して生きて生きた人には、「この人はこんな人なんだ」と他人の目には映るわけです。
取り繕っていきていたら、頼まれごとが来るとしても、やはり取り繕う必要のある頼まれごとが来るのです。
そういう顔をして生きてきたのだから、世間のあなたを見る目も同じになります。
それでも、取り繕っているとは言え、頼まれごとをされるほど真面目にやってきたからで信頼されているということかもしれませんし、あるいは単に「逆らわないだろうから都合よく使いやすい」のかもしれません。
他人や社会の価値観自体が「不自然」であることが普通ですからね。今はコロナでちょっとずつ変わってきているかもしれませんが。
私も以前は「誰かに何か頼まれたら、よっぽど嫌じゃない限りは従おう」
という考えも持っていました。
それが「宇宙の流れかもしれない」と思っていたからです。
まじめにやっていったらきっとあの時見たビジョン(※2007年生死をさまよった際の体験に書いています。)に近づいていくかもしれないと。
「あの人からの誘い、私にとっての導きかもしれない」症候群
です。
本心からやりたいと呼べることではないけれど、社会の価値観の枠の中で、自分のできる精一杯をやる。
これが実際何年もできるのであれば、きっとその仕事から特殊ルートで自分の見た使命に繋がっていったのでしょうが、現実はそんなに没頭できるほど一生懸命できるものではありません。
違和感の方が大きくなってしんどくなってくるのです。
これって宇宙の流れとは言えないですよね。
他人に頼まれたことや勧められたことであっても、億劫だったり強制されているような感じや義務感ばかりを感じるのであれば、それは単に他人の価値観に従っているだけ。
自分が無いだけ、
「服従」ということです。
他人に頼まれたこと=宇宙の流れ とは限らない
のです。
宇宙の流れとは
宇宙の流れ=心が軽くなること。やりたいこと。情熱を感じること。無理せず自然にできること。
やはり自分が心から満たされる仕事や活動ということですね。
でもまあ遠回りをすること自体ももっと大きな視点からみるとそれはそれで「流れに乗っている」のでしょう。楽しくはないですが、そういう体験をしたからこそ、お伝えできることもあるので。
以上読んでくださりありがとうございました。