自分らしく生きたい。
自分が無理なくできること、好きなこと、無理なくできることで他者貢献したい。
そのことで自分もまた充足を感じたい。
これらのことを常々考えて過ごしてきました。
天職とは、没頭できること、無我の境地でできることではないかと思います。
無我といっても全く我が無くなってしまうことはないと思いますが、自分の我を満たすためという境地からはだいぶん遠ざかり、我が薄れ、相手が喜ぶよう、相手のためになるよう、最善のはたらきができる状態でしょう。
私の場合だったら、人の話を聴かせていただく活動がライフワークなのですが、人によって異なります。
料理を提供することかもしれませんし、歌うことかもしれません。
外でバリバリ働くことかもしれません。
「我が薄くなり、無我の境地に近づく」これは自分がそのような状態になるのですが、同時に相手もまた相手なりにその人の本来性が開いてくるからこそのことです。
世界というのは自分の心の反映です。
これはあなたや私だけでなく、一人ひとりに言えること。
相手の心、たましい、スピリチュアリティの部分が、より純粋になってくると、相手の世界というのもその人自身の心の現れですから、優しさや慈愛に満ちたものになっていきます。
それは、それまで個として分離を感じているのが当たり前の状態から、ワンネス・大いなるものとより繋がりが感じられるようになっていくということでもあります。
優しさや慈愛、これは相手の心がより純粋になったからこそ、大いなるものが世界を通して、相手に体験させているということであり、その媒体が私かもしれませんし、あなたのはたらきかもしれません。
あなたの心が浄化され、我にとらわれなくなるということで、相手にとってより純粋なはたらきかけができるようになり、相手もまた自分自身の本質に触れ、同時に個を超えた大いなるものに触れることになるということは、それはあなた一方の浄化が進んだからではなく、相手もまた同時に同じように浄化・解放が進んでいるからということになります。
心と心が通じ合ったような体験をしますが、双方が癒されるのですね。
コミュニケーションにおいて、あなたの中に何かの反応が生まれたということは、相手がそれを生み出した、相手の心の中の反応としてそれがあなたの中に起こったということが言えます。
このように捉えると、自分で考えること、自分で意図して計画すること、心で感じることなどは、自分がやっているように感じますが、相手の存在や、全体の動き・流れの中の一つの反応として、勝手に起こってくることとも言えます。
相手の中の反応も同じですね。相手が起こしているようで、実は全体の動き・流れの中の一つの反応として起こっているというわけです。
自分という枠から視点を広げてみると、相手の中で何が起こっているから、私はこんな風に反応するんだな、という気づきが生まれます。
またもっと広い視点でとらえると、世界はどのようなはたらきを私に求めているのかな、自分をどう生かすよう導いているのかな、と個人を超えた次元でとらえることができます。
同時に私の中でこんなことが生まれたから、世界でこんなことが起きているんだなという、心と世界が連動しているのではないかという感覚もあります。
読んでくださりありがとうございました。