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スピリチュアルケア。有害なスピリチュアリティについて。

臨床スピリチュアルケア協会の研究会レポートです。

専門職養成課程CSCCではレポート課題があります。

これは昨年提出したものですが、加筆修正しブログにも掲載します。

有害なスピリチュアリティについて考えてみました。

 

CSCC レポート

2018119日 第83回パスク研究会  窪寺先生

タイトル「スピリチュアリティを再考する―国際スピリチュアルケア学会から学ぶ」

 

窪寺先生の講義はレジュメに沿って以下の順に発表され、最後に出席者との質疑応答の時間があった。

  • 国際スピリチュアルケア学会で学んだこと
  • スピリチュアリティとはなにか(スピリチュアリティの多面性)
  • スピリチュアリティの認識法、判断法

 

とても内容の濃い講義であった。私にとって特に強く意識させられた有害なスピリチュアリティに焦点を当て今回のレポートにする。

以下、内容です。

  1. スピリチュアリティとはなにか
  2. 有害なスピリチュアリティについて
  3. 使命や運命といった考え方
  4. ケア提供者として「支える」とはどのような意味か。「今ここ」にかけること
  5. 大いなるものの流れに従うこと、自分の本心を大事にすること、社会の望むように従うことのバランス

 

1.スピリチュアリティとはなにか

人によってとらえ方はさまざまであり、文献によっても違いがみられる。

ある文献ではスピリチュアリティを中心に〈全人性〉があり、その周りに【身体的】【心理的】【社会的】【スピリチュアリティ】というふうに他の4つと同等に、人間の一つの側面としてとらえているものがある。

しかし窪寺先生のとらえ方はそれとは異なる

スピリチュアリティはむしろ他のすべてを包括するという考えである。身体的、心理的、社会的、すべてを内に含んだもの、それを一つのまとまりと考えるのがスピリチュアリティというわけである。

また西平直氏のスピリチュアリティの位相という考え方が紹介された。スピリチュアリティは「宗教性、全人格性、実存性、絶対受容性」の4つの位相を持つというものである。

個人として抱えているビリーフは当然ながら一人ひとり異なり、そのため何がその人にとって大事か、どのようなことがその人の生きがいになるかは違う。

スピリチュアルケアにおいて、「寄り添う」という意味は、ケア対象者の世界に入り、対象者のビリーフの枠組みの中で答えや気づきにつながる資源を見出そうとする営みである。

もしくはケア対象者と提供者がともにビリーフから自由になりそこから新たな知恵や答えが見つかるということもスピリチュアルケアと言える。

1.有害なスピリチュアリティについて

研究会の最後に〇〇先生が言われた内容がそのまま課題になったと思う。

スピリチュアルケアは対象者が生き生きと生きていけるよう、またありのままの自分でいられるよう、その人の心の支えとなるものを一緒に見つけ出す、その人の決断を支持する、などのサポートをすることだと認識している。

しかし、対象者の大事にしている生き方というものが、他者を傷つけることにつながる場合があり、そのような「有害」なスピリチュアリティを抱えている対象者に対して、「健全な」方向に導こう、諭そうとケア提供者側が方向付けしてしまうのがその人にとってはスピリチュアルケアにならないのではないかということである。

この点に私自身も本当にこのような場合はどうすればいいのだろうかと思い悩む。

有害なスピリチュアリティとは一体どのようなスピリチュアリティなのか。ということを自分なりに考えてみた。

  • 自覚的に自分に危害を与える
  • 無自覚に自分に危害を与える
  • 自覚的に他者や外の世界に危害を与える
  • 無自覚に他者に外の世界に危害を与える

おおざっぱであるが基本的にこれらの4つではないだろうか。

上記は人間対人間、人間対動物、人間対自然環境など働きかける対象をどこまで広げるかによって、ある対象には「寄り添って」いるかもしれないが、別の対象には「危害を与えている」という状態を作り出す。

例えば宮崎駿監督の作品『もののけ姫』に出てくるエボシは、たたら場で働く、売られてきた女性たちの味方であるし、肉が腐る病を患い人間扱いされなくなった者から「人として扱ってくれる」と感謝されている。

たたら場の人間にとっては強いリーダーでもあり、常に弱い物に寄り添う優しさも持ち合わせている。

そこに住む人間がその人の尊厳を失わずに生きていけるよう支えており、「スピリチュアルケア」とも言える関わりを交わしている。

しかし自然や神を破壊し、支配するという面も持ち合わせており、対自然においては「有害」そのものである。

エボシの例に限らず、対象の範囲を広げると必ずどこかで「有害」な面が出てくるのが現在の地球社会におけるスピリチュアルケアではないだろうか。

地球に生まれ肉体を持つ以上、他の生き物のいのちを犠牲にしないと生きていけないので、生きているだけで他の生物にとって有害であるというのが地球で生きることそのものである。

目の前の人間に対しては良い関わりができた。しかし大きな目で見てみるとその関わりの裏にはどこか知らないところで動物だったり自然だったり、あるいは見ず知らずの人間が傷ついているということが必ずあると思う。

病院でスピリチュアルケアを行うということも、病院という建物を建てる時点で自然破壊であるし、エアコンをつけることも自然破壊につながる。

人間社会の発展と自然との共存が一つの課題でもあろうが、自然破壊を食い止めつつも人間の生活の発展との足並みをそろえていく必要がある。

こういうことを言い出すとキリがないので、人間対人間という範囲で考えてみる。

窪寺先生が配布した資料によると、ダニエル・S・シンパニー教授

「見方・考え方が狭い、硬い、流動性に欠けて、一面的、一つの考えしか認めず、それを絶対的に正しいと主張。自分に味方なのか敵なのか、自分に忠誠があるのかないのか強く意識している。」と述べていて、

ラーティー教授は「身体的、情緒的、性的に危害を与える。メンタル、情緒、関係性が機能不全にさせられてしまう。権威主義的指導者に支配されて動かされている」と述べている。

では「危害を与える」ということは一体どのようなことだろうか

殺害、身体的に傷つけること、精神的に傷つけること、などが挙げられる。

自分や他者が危害を与えられたことによって、最悪の場合は死に至るが、生き生きとした意欲や情熱を持って生きていけない状況に陥らせたり、人生に希望を持てなくなったり、身体を傷つけられることによって物理的に行動が制限されたり、自分の存在自体がいやになったり、自己否定の感情に取りつかれたりする。

また中には危害を加えられた、傷つけられたことへの怒りから他者に危害を加えようとする者も出てくる。

同資料によると健康なスピリチュアリティとは「情緒が安定、柔軟性、包括性、公共性、慈愛」とある。

有害なスピリチュアリティや危害を与えるということはこれの逆を行くことと考えられる。

 

仏教では本来人間は無我だと言われている。そして人生は苦である。

心の中に「執着」や「煩悩」がありそれが主体となって働くと思い通りにいかない苦しさに心がとらわれてしまう。

本来は無いはずの個人としての自分というものが「ある」と思い込んでおり、その自分を大事にしたい、守りたい、他と区別したい、このような思いが基盤となって、自分のことに終始とらわれている状態が苦しみである。

他者が活きるようにとか、他者のたましいが最も喜ぶように、などという慈愛ではなく自分が利するようにという利己的な思いが強まった状態とも言える。

有害なスピリチュアリティかどうかという判断は利己的な思いの程度、危害の程度にもよる

生まれてくるだけで、有害なスピリチュアリティ、利己的なものは誰しも持っていて、他の動植物のいのちを奪って生きているのが生物、人間であるのだから生きているという時点で「有害」からは逃れられない

元々人間の性質として「有害」という面は持ち合わせており、それは多くの場合は対動物、対自然ということになる。

霊性の進化した者にとっては対動物、対自然に害を加えることも「有害」そのものであるが、そのような行為を無知から行っている者に対して裁きの意識を向けること自体も「有害」であろう。

仏教の唯識の考え方では、周りに起こる出来事は自分の心の反映とされている。

自分の心に「自分は正しく、他人は間違っている」という裁きの心(原因)あるから、他者を責めるような状況(結果)が起こっているとも言えるのではないか。

 

危害を与える対象が人間となった場合に大きな問題となる。

その場合、危害を与えた人間が、自己の問題にとらわれ他者への配慮が欠如した結果であるといえるし、また故意に傷をつけるような暴行や殺人なども自分という存在にとらわれ、怒りや恨みなどの感情が主となって人間側がコントロールされた結果であると言えよう。

またそのような煩悩、執着にコントロールされるという業があるからこそ、私たちのたましいは人間としてこの世に誕生したとも言える。

宗教的な修行が進み、個としての存在次元が破られてより大きな存在次元へと移行すると、スピリチュアリティもより健全なものになっていき、他者への慈愛感情も深くなると聞く。

しかしそのより大きな存在次元に移行する際には「個」として存在が破られまい、壊されまいとしてその力が大きな次元への移行を邪魔をする。

個として存在している限り、そのような「利己的」な働きは常にあるのだが、個を超える際はそれが強烈に働くとされる

イエスキリストが荒野で対決した悪魔や、ブッダが出くわしたマーラもそのような存在を象徴しているのだと思う。

また『霊操』で述べられている「荒みの時」であったり、『天台小止観』の「覚知魔事」にも同じことが書かれている。

宗教的な修行をするということは、個人の意識を深く掘り下げるということであり、掘り下げた先には神仏と繋がる大きな意識つながるのだが、それを阻止しようとするのが「魔」と呼ばれているものであり、これは有害なスピリチュアリティとも共通しているのではないだろうか。

スピリチュアリティが深まるほど、対抗してくる魔も強まるのではないだろうか。

仏教では「業」ともいい、キリスト教では「罪」と呼ばれているもの。

それがあるから「個」としての苦悩があり、執着し、神様が自分に望んでいることを行うことを邪魔する

いずれも個にとらわれるからであり、個としての存在があると思い込ませるもの、他と区別させるものがどういうものであれ「魔」というわけである。

個としての自分が存在すると思い込んでいるビリーフ」ということもできる。

3.使命や運命といった考え方

 

使命とは個としての資質や特質を生かしつつ、他者への利他行為であり、それによって自他ともに喜びにつながるものだと言えよう。

神仏が望まれるように生きるのが使命とも言える。

地球上の人間全員が使命と呼ばれるようなものを持っていると私は思う。

そして個々人はその使命とされるものの中に、有害なスピリチュアリティの部分も程度の差はあれ含まれているのではないだろうか

というのは、有害なスピリチュアリティも「それもあり」あるいは「本来は有害なのにそうとされていない」という価値観や枠を持っているのが社会というものである。その社会の中で生きていくとすると、個人の「使命」も社会の枠組みにある程度は合わせた形をとりつつ、この世をより良くしていくものということになる。

「有害」な割合が多い人、つまり業や罪と呼ばれているもの、執着や煩悩、凝り固まったビリーフが解放されずにいる者は、それはそれでそのままの自分でいることがその人にとってベストなのかもしれない。

とらわれから解放されるにつれ、有害の度合いも薄まってくるだろうが、幾生もの人生が必要だと思う。

メーテルリンクの『青い鳥』で、未来の国で出会った生まれる前の赤ちゃんの話が印象に残っている。

赤ちゃん一人ひとりが地上に持って降りるプレゼントを持っているという状況はそれがその子が地上で果たすべき「使命」と解釈することができる。

その中身は決して喜びや幸せというポジティブとされるものとは限らず、病気や犯罪といったネガティブと意味づけされるようなプレゼントを持って地上に降りる赤ちゃんもいるのだ。

それらは一見有害に見えるが、個としての世界に必要だともとらえることができる。

善と悪が存在し、悪という存在があるからこそ善が善でいられる。

一般的な解釈では他を生かすことが善、他を傷つけることが悪とされる。

また悪を悪としているものは、傷つけられた側や周りの人が「個」としての自分を守ろうとする心の働きであって、それもまた「個」としての自分に執着していることになる。

その考えがなければ悪は存在しえないし、個としての存在があると思っているからこそ、傷つけられた、害を被ったとなる

悪を存在させているのはどちらか一方ではなく、害を与えた側、与えられた側の両方ではないだろうか。

またブッダやキリストが「悪」との戦いに勝ったという意味を考えると、ブッダがブッダになるためには、キリストがキリストになるためには「悪」の存在が必要だったとも考えられるのではないだろうか。

悪の存在に負けるということは自身も悪魔になることを意味している。

ブッダやキリストが「個」を超え神仏の働きとしての使命を生きるため、それは肉体が亡くなった後も人類の信仰の中で生き続けていくことを意味するのだと思うが、それができるのは悪の存在からの誘惑に打ち勝ったからこそであると思う。

心を惑わす誘惑は外の世界に存在しているように見えるが、実は自分自身の心の中の対決だと私は思う。

それは人間もまた同じで自身の使命を生きるためにはそのような「悪」「有害とされるもの」つまり個としての自分の中になにか執着の感情を生じさせるような「障害」「苦難」「試練」などを超えていくことの必要を意味しているのではないだろうか。

ある者が「超えていく」のだとしたら、ある者は「障害を与える側」「有害とされる働き」という役割を使命として担っているとも考えられる。

害を与えるという一見加害者のようにも思える役割であるが、相手側の心にそのような「執着」が自覚せずとも元々あるからこそ、「害を与える」という行為が完了できるのであって、結果として相手側が元々持っていた「執着」「業」が解き放たれる

逆にいうと元々そのような執着や業があり、それを解放するために外の世界で色々な出来事が起こり、そのうちの一つが他者から害を与えられるということかもしれない。

実際に、スピリチュアリティの変容というか、ビリーフの再構築、PTG(心的外傷後成長)など、苦難、試練の先にそのような人格的変容が起こることが知られている。

喪失体験、悲嘆や苦難といった過酷な状況はまさにその人にとって「有害」そのものであり、多くの場合自身の強い苦悩の感情に囚われ、自身への執着が強まった状態に陥る

しかし苦しみ抜いた先、それまでやってきたやり方が通用しない、それまで支えになっていたビリーフが機能しないという「極」に行きつくとおのずと逆方向への転換が生じる

それまで自分自身の苦しみに固執し、周りが見えなくなっていたのが、自分を縛っていた思い込みが解き放たれ、癒しや気づきが生じ、他者への慈愛の念や自然や神仏への畏敬の念が強まるなどといった変容である。

このことを考えると、人が以前よりも成長し、より健全なスピリチュアリティを有するに至るには一時的に「執着」を生じさせる「悪」とされる存在が必要なのではないか。

それがある人には「出来事」の場合もありある人には「人」の場合もある。

 

 

4.ケア提供者として「支える」とはどのような意味か。今ここにかけること

 スピリチュアルケアの提供者としてどのように相手を支えるかということであるが、「有害なスピリチュアリティ」の問題は本当に難しい。

先に述べた内容のような「結局はその人の死後のスピリチュアルな成長につながるのだから害を与えてもいい。

むしろ与える方が相手の業が解放される」という考えに陥るとまさにオウム真理教の犯行そのものである。

人間を超えた神仏の目から見ればそのような犯行であっても、誰かのスピリチュアリティや霊性の向上に貢献しているのであろう。

鎌田東二先生の著書『呪いを解く』によるとオウム真理教の麻原はまさに宗教的修行の途上で超えるべき「魔境」のことを熟知してたようだ。

その魔境を抜けるのに3,4年ほどの年月がかかったとのことであるが、結局は抜けられずに自分自身が「魔」と化してしまった

私自身にとってこのことは大きな教訓となっている。

私も突発的に悪の心が浮上することがあるが、それを行動に移すとどうなるか、オウム信者の姿がよぎり、このような心の働きに乗っ取られてはいけないという抑止力にもなっている。

しかし人間の世界では「悪」とされることであっても神仏の目から見れば善でも悪でもないのかもしれない

スピリチュアルケアは限界のある人間が行うものであり、常に「これが相手にとって最善」と思えるような対応をするしかない。

その人のありのままの姿を支え、その人が最も望む形で「生きる」ようサポートする。

そう考えるとやはりオウムの例などで「業が解放され死後の世界で救われる」などという理由であっても、殺されたくない、生きたいという人の意思に反することを行うのはやはり「有害」という判断がされる。

殺人や暴力などは極端な例かもしれないが、似たようなことは日々、日常の中に起こっているのではないか。

研究会で出た一つの例として、不登校の子どものことがあった。

問題解決型とされるケアでは対象者を社会に適応させることが目的とされる。

不登校という状態から徐々に学校に行けるようになることが、ケアの目的である。

しかし寄り添い型のスピリチュアルケアではまずその子ども自身が本当はどうしたいのかというところが最も重要で、その子がやりたいようにできるよう支えるのがケア提供者である。

不登校の子どもの中には「なんのために生きているのかわからない」という問いを抱えている者もいる。

真剣に人生について考えているその子にとって、学校に行ったからといってその子自身の開花につながらない、生き生きとした人生につながらないとどこかでわかっている。

学校という環境が本当に自分のことをわかってくれる場ではなく、むしろ自分の方が学校に合わせている

本当の自分を押し殺し、外の世界に通用するように建前で行動し、自分らしさなど全く表現できずにただただその場をやり過ごす。

そのように自分に無理をさせてきた結果、もうこれ以上頑張れなくなり不登校という状態になって表面化している。

本当はもっと自分の本質に根差したことをやりたいという魂の衝動があるが、まだ子どものためそこまで言語化できるほど自覚していない。

このような子どものケアに当たる場合、不登校で学校に行きたくないと言っている子に学校に行かせようと徐々に徐々に「問題解決型ケア」でケア提供者側の価値観に引っ張ってこようとすることは「有害なケア」(これはスピリチュアルケアではないかもしれないが)ということになるのではないか。

ケア提供者側に「有害なスピリチュアリティ」が働き、子ども自身は本当の望みは叶えられないということになる。

もしかすると「先生の言うことを聞いた方が良いのかもしれない」という考えがよぎり、本心では学校に行きたくないのに「行きたい気がしてきた」と自分で自分をだますようなことになり、徐々に「本心」が薄らいできて結果的に学校に行けるようになるかもしれない。

そして本人ももしかしたらその時は「らくになった」と感じるのかもしれない。

「その子本人のたましいの叫び」「その子本人の開花」ということを考えると果たしてそれで良かったのか。

社会適応はしたものの、たましいの叫びを失ってしまったということになりはしないだろうか。

数年後に「あの時あの先生は私の気持ちを聴いてくれなかった本気で向き合ってくれなかったよね。」と気づくのではないだろうか。

しかし有害な働きは苦悩をもたらすものであるから、苦悩に向き合いもがき苦しむという時間差を経て「自らの気づき」スピリチュアリティの覚醒、霊性の向上、といった変容をもたらすかもしれない

だがスピリチュアルケア提供者はこのように、「今」から目を反らし、時間差で相手が変容することを期待するのではなく、「今ここ」でその人自身がもっとも幸せでいられるよう、気づきを得られるよう、平安を感じられるよう、苦悩の中でも「独りでない」と感じられるよう、素の気持ちを出せるよう、ありのままでいていいと思えるよう「この瞬間」にかけることなのだと思う。そしてすぐに苦しみ悲しみをどうにかしようとコントロールするのではなく、その人の持つ力を信頼し、長い目でみることが大切である。

健全なスピリチュアリティという概念にとらわれるあまり「いつか良くなるために今我慢しろ」だとか、「あなた以外のほかの存在のため」などと相手の本心の声を置き去りにして「今ここ」以外、他のスピリチュアリティを支えることや、自分の理想や価値観を押し付ける方向に逸れてしまっては、目の前の人へのスピリチュアルケアとは言えない。

相手が「有害」なスピリチュアリティに対して生きがいや幸せを感じているのであれば内容には賛成できなくとも、気持ちそのものには寄り添うということがケア提供者の使命ではないだろうか。

また、有害なスピリチュアリティによりどころを見つけているという状態は、対話を重ねてたましいの叫びを深く深く探っていくと、やはりそこには個人的な苦悩であったり癒されていない理不尽な思いや、誰にも理解されなかったという苦しみに行きつくように思う。

表面的な形としては、「自分が正しく、正義を貫くことが善。そのためには間違っている側に強く訴えなければならない」「他者を攻撃することが快楽に感じる」、あるいは「他者を殺すとその殺された人の業が解放されるからその人のため」という訴えとして現れるかもしれない。

しかし、その表現に含まれるメッセージは何だろうか。

「今ここ」でそのメッセージそのものに耳を傾けると「苦悩」「悲嘆」「理不尽な思い」「自分の存在の否定」「いのちそのものの否定」などに行き着くように思う。

苦悩を抱えているという面では多くの相談者にも共通していると思われる。

有害なスピリチュアリティを生きがいとしているような人であっても、対話することで徐々に健全なスピリチュアリティが目覚めてくるのではないだろうか。

しかし、苦悩を抱えているということに気が付いておらず、むしろ自分のやっていることは正義だと思っていて、スピリチュアルケアを受けるという発想もない場合、どうやって手を打てばいいのだろうか。

結局目の前の人にケアを行う以外何もできないということなのかもしれない。

人は自分や家族が傷つけられた、モノのように扱われたという体験が積み重なり、他者や社会への攻撃性となって表出する。

とにかく目の前の家族、友人、仕事関係の同僚などといった存在に接する際にも「今ここ」のスピリチュアルケアのマインドを忘れず対応することが大切なのだと思う。

そして何より自分自身をモノではなく、大切な存在として尊重することから始まるのだと思う。

 

5.大いなるものの流れに従うこと、自分の本心を大事にすること、社会の望むように従うこと

 

 あらゆる宗教では神仏に近づくよう、神仏の望むよう生きることを人間に望んでいる。

個としての自我、エゴと呼ばれているものやある事柄への過剰なとらわれともいえる。

自分の主体性が奪われ、その「とらわれ」にコントロールされていることが苦悩である。

さまざまな感情、楽しい、嬉しい、怒り、嫉妬、悲しみなどはそれ自体に善悪の意味はなく、自然とわいてくるものである。

スピリチュアルケア提供者や宗教的な修行を積んでビリーフの解放が進んでいる人の場合であってもそのような感情はわいてくるであろう。

しかしそのような人たちはその感情に呑み込まれず、自分が感情の「主人」となることができる。

しかし普通の人は感情がしばしば「主人」となってずっと苦しみから逃れられなかったり、他者を傷つける行動を起こしてしまったりする。

個人が「ビリーフから自由になっている割合」と「大いなるものの流れに乗る生き方(神様が望まれる生き方」は自由になっている割合が高いほど、一致度も高いといえる

社会の望むように生きるということを考えると、その人の属する社会の考えが「利己的な考えへの比重が大きいのか」「大いなるものの意志、流れに沿っているものなのか」という両者のバランスによっても、個人がビリーフから自由になっている割合とどうフィットするかということも出てくる。

いくら個人がビリーフから解放されて、神様の道を歩いているとか言っても、社会とのずれが大きいために足並みがそろわなかったら、結局理解してもらうのが難しく、独りよがりと変わらない

社会そのものが「それが当たり前」「そういう前提」「それが常識」として抱えるビリーフの中には、「有害なスピリチュアリティ」も存在していて、自覚の無い人たちも多い。

その人たちの「有害な部分もあるスピリチュアリティ」をもそのまま支えつつ、足並みを揃えながら進化していくことが大事なのであろう。

 

以上、ここまでです。

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