誰もが知らず知らずスピリチュアルケアをやっている
生まれる前から死んだ後まで~実はとても身近にあったスピリチュアルケア
スピリチュアルケアという言葉を聞くとなんだか理解が難しいような、
一体どのようなケアでケアされた人はどういう状態になるのかなど
わからない、想像しづらいということがあると思います。
「スピリチュアルケア」とい言葉を取っ払って考えてみると、実はとても身近なものだということがわかります。
それは自分と目の前の人の「いのち」「スピリチュアリティ」「たましい」「存在」を大切にする心を持って関わること自体がスピリチュアルケアになっているということです。
例えばお母さんが妊娠中におなかの赤ちゃんのことをとても大切に思い、クラシック音楽をおなかの子と一緒に聴いたり、絵本を読む、お父さんと一緒におなかに話しかけるなどの行為もスピリチュアルケアということができると思います。
日常の当たり前の光景かもしれませんが、わざわざそれを「スピリチュアルケア」と名付けることをしなくても、自然な営みの中で「スピリチュアルケア」になっています。
また赤ちゃんが生まれて、寝返りを打った、一人で立ち上がった、初めて言葉を発したという成長の過程で日々できることが増えていく。それを見てお母さんやお父さんが赤ちゃんと喜びを共にする。
こういうことも「スピリチュアルケア」といえるでしょう。
赤ちゃんにとっても、親御さんにとっても双方向のケアになっています。
子どもが成長して、友達とけんかして泣いて帰ってきた。その時にお母さんが「辛かったね」と子どもの気持ちに寄り添ってわかってくれる。これもスピリチュアルケアです。
家族の中の例えばおじいちゃんが病気になって、お見舞いに行く。そこでおじいちゃんのことをとても大切に思っている孫が早く元気になってねと手紙を書いて渡す。
こういうこともスピリチュアルケアですし、おじいちゃんが亡くなった後、お父さんお母さんと一緒におじいちゃんのことを話しながら泣くというのもスピリチュアルケアです。
スピリチュアルケアというのは実は身近にあって、目の前の人の「いのち」「こころ」を大切に思い、関わっていくことといえるでしょう。
身近にあり誰もがスピリチュアルケアを行うことができますし、知らず知らずのうちにやっていたというのが多いのではないでしょうか。
しかし、中には目の前の人のことを大事にできない、「いのちある存在」としてではなく、「自分の利益になるモノ」として利用する行為もあります。
そのような行為は人を人としてではなく、モノとして扱っているのでスピリチュアルケアとは当然言えません。
自分の欲求のために人を利用したり、暴力をふるって支配しようとするなどの行為は「いのち」を大切にする行為とは逆です。
しつけといって厳しくするあまり、子どもの「いのち」「生きる力」を奪ってしまっていることは多々あります。
「しつけ」はまず「いのち」が生き生きと生きることを大切に、「人間」あってのしつけということをわかっていないと「しつけ」のために人間がモノとして扱われているような状況になってしまいます。
これは勉強や仕事にも同じことがいえるでしょう。
人がその人自身の「いのち」その人らしさを生かして人生を生きられること。
それを支えるのがスピリチュアルケアだと言えます。
生まれる前から死んだ後まで、人生のあらゆる場面で、人生自体が「スピリチュアルケア」の場です。
同時に人生自体がそれの「逆方向」つまりいのちを大切にするのではなく、「モノ」に利用される方向、「いのちをしぼませてしまう」方向にに引っ張られることも多いのだなと思います。
あらゆる人間の営みがスピリチュアルケアになっている
全ての行為がスピリチュアルケアになる可能性も、逆になる可能性も含んでいると思います。
例えば、芸術はそれを見た人や音楽であれば聴いた人が元気になったり癒されたりということがあります。
作り手や表現者は、見る側、聴く側のスピリチュアリティを支え、生かすことを芸術を通してやっている、芸術を通してスピリチュアルケアをしていることになります。
「スピリチュアルケア」ということを意識せずとも、見た人が元気になったらいいな、勇気を与えられたらいいなという動機で作品を作る、表現する、それが伝わるということです。
他にも日常の食事からファッションや教育、医療、スポーツ、あらゆる仕事が知らず知らずスピリチュアルケアにつながっているとみることができます。
また逆に自分の利益を重視してお客さんを金儲けの手段としか見なさないとなると、これもまたスピリチュアルケアとは真逆ということになります。
ブラック企業などはまさに、従業員を「モノ」してしかみておらず、従業員の健康や生活、精神的に平安であることなどはどうでもよくなっています。
そして意識せずとも、自分では「これがいい」と思っておりそれを勧めたとしても相手にとっては逆に生きづらさが増してしまったり、生きる力が奪われたりということがあります。
例えば親が、子どものためを思って「〇〇しなさい。将来その方が安定してるし、お金にも困らず生きていけるから」と考えを押し付けて子どもの本心は置き去り。
親に従ったがために「いのち」縮こまってしまっているということもあるでしょう。
「いのち」を大切にするということ、「スピリチュアリティ」を大切にするということ。
とても身近にありますが、誰もができることでもあり、ちょっとしたことでモノとしていのちを利用してしまう罠にはまったりと、身近であるがゆえ、ちゃんと掴んでおくには難しかったりするのがスピリチュアルケアなのかもしれません。
メイヤロフの「ケアの本質」にも同じようなことが書かれてあります。
amazonへのリンクです。→ケアの本質―生きることの意味
広義の意味でのスピリチュアルケアはとても身近にあるという記事でした。
職業としての狭義のスピリチュアルケアについては後日書くつもりです。
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