これは私自身の気づきでもあります。
目の前の人とともに「ここにいる」ということ。いさせてもらえるということ。
入院中の患者さん、大切なご家族を亡くした人、過去に受けた心の傷が理由で今も苦しんでいる人。
このように、スピリチュアルペインと呼ばれる苦悩や悲嘆を抱えている人のお話を聴かせていただく活動に関わってきました。
私にとってライフワークであり、相手の心深くに触れさせていただく貴重な時間でもあります。
今少し活動を休んでおりますが、現場を離れて見て、私の方こそ苦悩や悲嘆を抱える人とともにいることを求めているのだと感じました。
私が私でいられる場。飾らず、取り繕わず、素でいられる場。
どうして素でいられるのでしょう。
それは患者さん、ご遺族の方がこちらの存在を受け入れてくださるからにほかならないのです。
実はこれは本当にすごいことで、数々の苦悩を抱え、苦しんでいるはずの方が、心を開き信頼してくださる。
この「信頼」していただくということがいかに貴重な体験であるか。
私自身は苦悩のさなかにいる時には他者に対して心を開こう、つらい気持ちを聴いてもらおうなんてなかなか思えなかったのです。
感性が研ぎ澄まされている分ある意味「鼻が利く」ようになっていて、この人には話してもわかってもらえないだろうな、この人には話せるな、という風にフィルター機能が働くのです。
話そうと思えるのはごく少数であり、また自分の心の状態にもよりました。
ケアする側の真剣さ、目の前の人とその場を共にしたいという慈愛の心が通じて初めて心に触れさせてもらえます。
「この人にだったら話せる」
「この人に聴いてもらいたい」
「何も話さなくても一緒にいるだけで心が安らぐ」
このように思ってもらえるには、ケア提供者側もまたその人と一緒にいたいと思っていること、また日ごろから自分の傷や思い込み、偏見から自由になって、目の前の人のありのままを受け止めることができるよう、訓練しているかが大事になってきます。
ケアをするケアをされるというの実は相互にやっていることでもあり、どちらか一方がケアをして、一方がケアをされてされた側のみが癒されたというのではないのですね。
ケアをされた、癒されたという体験が生まれる時は必ず双方がケアされているし、癒されています。
ケア提供者という表現について
「ケア提供者」というのは、チャプレンだったりスピリチュアルケア師だったり、カウンセラー、教師、看護師、介護士、あるいはボランティアなど、職業や活動の枠組で考えた際はどうしてもそのような表現になってしまうということ。
そしてそのようなケア提供者は「話を聴く側」「苦しんでいる人の声に耳を傾けたい側」というそもそもの「動機」を持っています。
「ケアされる側」という表現も、患者だったり、ご遺族だったり、被害者だったりという枠組みがあり、さらに「聴いてほしい」「わかってほしい」という気持ちを抱えているため、ケアされる側と表現されることとなります。
しかし、人間対人間、双方の間に何が起こっているかというとケアする側、ケアされる側という枠を超えた癒しということになります。