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スピリチュアルケアのグループワークと「今ここ」。本当の意味での「生きる」がつかめる研修

「今ここ」で心を開くこととスピリチュアルケアの訓練

スピリチュアルケアとは、命の危機に直面した患者さんや、大切な人との死別を体験し、悲嘆に暮れている人、過去のトラウマの苦しみを抱えている人などのお話に耳を傾ける活動です。

スピリチュアルケアをする側になる訓練の一つに「グループワーク」があります。

通常研修生が5,6人、スーパーバイザーが2人のグループで、あらかじめ用意した内容を分かち合い、お互いに「感じたこと」を投げかけ、やり取りをします。

ブログ内の説明ではわかりにくいかと思いますので、詳しくは以下の本をお読みいただけたらと思います。

「スピリチュアルケアを語る〈第3集〉臨床的教育法の試み」

この本は臨床スピリチュアルケア協会(PASCH)のスピリチュアルケア研修では必読書となっています。

 

感じる違和感から本心につながっていく

グループワークでは内容について議論を行うのではなく、心の中に生まれた感情を打ち明けたり、「このことをぜひ伝えたい」と感じたなら、その気持ちを伝えます。

そのグループワークの中で、相手の発言や自分の発言に違和感を感じることがあります。

なぜ違和感を感じるのかというと

1.相手の言葉とその裏にある本音(相手自身も自覚しきれていない)のズレを感じるから

2.相手は本音を言っているのに、自分の物の見方に偏りがあるから、ダイレクトに受け止められない

ということになります。

1の場合も2の場合も、深く掘り下げていくと、グループワークでの対話を通してだんだん本心に近づいて生き、「ああ、そういうことだったのか」という気づきに至ることが多いです。

多くの場合は、その人が抱えている

「コミュニケーションを濁ったものにしている原因」

「過去の未解決な問題」

が浮上し、それがグループワークを通して癒されるということになります。

より「素」のままで対話ができる状態に近づいていくわけです。

自分を縛っている「ビリーフ」(「こうでなければという価値観」「偏見」「制限」など)が明確になり、

それまでは無意識のうちにそのビリーフに当てはめて物事をとらえていたため、「違和感」となっていた状態から解放され、心もらくになります。

つまり、他人の目を気にしたり、本心とは違う「取り繕い」が減るので、本心から素直に感情表現ができるようになるのです。

グループワークは本当に不思議です。

相手がうそを言っているということが伝わってくるのですから。

逆に自分のうそも伝わります。

例えば「私は大丈夫」と言っているのに、全然大丈夫じゃないな、助けが必要なんだろうな、この人本当は「助けて」って言ってるんだろうな、とわかるのです。

もちろん相手はうそを言っているという意識はなく、普段通りの反応をしているだけなのですが・・・。

日常生活でもよくありますよね。

なんとなく相手の本心がわかってしまうことが。

スピリチュアルケアのグループワークでは、それがより一層鋭く感じられる体験をします。

そして自分の言動も、より本音に近づいていくようになります。

本音を掴み切れなくて発した言葉と感じていることに差を感じて、自分でも「違和感」を抱くことがあったりします。

そのような時は他の参加者たちが、真剣に寄り添ってくれ、本心に辿り着けるように時には沈黙の時間を作って待ってくれたりして、一緒に心の深い所に降りてくれるのです。

「この人の助けになりたい」と思うばかりに矢継ぎ早に質問を繰り返しても余計にごちゃごちゃして思考のノイズだらけになることが多いですが、黙って待つという態度は口では黙っていますが、心の中では一緒に深い所に潜って行っているような感覚です。

グループワークの場というのは、日常生活と比べたらかなり特殊な環境と言えるでしょう。

日常生活では本心を隠して取り繕うことがむしろ求められている場合が多いですし。

それが通常の「社会生活」を送っていく上で必要だったりしますしね。最近はずいぶんと「本音より」に変わってきたかもしれませんが。

グループワークでは「素の自分」でいられるので、普段のシチュエーションなら相手に対して言いにくいであろうことも、素直で正直な気持ちから伝えることができます。

ちょっと踏み込んで訊きにくいことを訊いたりもできます。

これは相手のことを信頼しているからこそできることです。

またこのようなことを言ったり尋ねたりする自分の「動機」も同時に問われます。

相手にとって失礼と受け止められた場合、それは発した自分が本音で言ったと思っていたけれども、自分の都合優先、自分のエゴからの興味優先で、相手に対して思いやりの心が欠けていたということになります。

このような場合は「自分はどうしてそんな発言をしたのか」その動機がどこにあるのか、その発言によって何を得ようとしていたのか、向き合う必要が出てきます。

または相手に対して慈愛の心で発した言葉であっても、相手側の「ビリーフ」にはねのけられてしまう場合もあります。

本心から発した言葉が必ず伝わるとは限りません。

この場合も、相手に受け止めてもらえなかったからといって、

発言を取り消したり、自分が悪かったなどと責めてしまう方向に行くことがありますが、

そうなったらそれがその人の課題ということになるでしょう。

本心を伝えたのに、「やっぱり取り消します」となるんだったらその弱気な態度や、

腰が引けてしまったり、自分を悪者にしてしまう態度などです。

または自分は本心を伝えたことは間違いないとしても、相手が受け止められるタイミングを間違え、焦ってしまったということがあるかもしれません。

そのような場合は相手のことを待てなかったという、相手に対する信頼が今一歩足りていなかったということになるでしょう。

 

他にも、気持ちの深いところが動いているのに、伝えていいのかどうかという自信が無くて言葉にできないまま過ぎてしまうということなどもあります。

相手が「物足らない」と感じる場合もあれば、「言葉にはできなかったけれども、本当にこの人は私のことをわかってくれたんだな」と気持ちが伝わることもあります。

グループワークというのはその場で「起きていること」であり、「こんな質問が出たときはこう答えたらいい」という正解がありません

同じ言葉を発しても、Aさんの場合とBさんの場合では受け止め方が全く異なったり、同じ言葉でも発する動機に違いがあればその「動機」の方が伝わってしまうことが多いです。

グループワークは自分の本心を感じ取ることに焦点を当てるので、慣れるまではなかなかエネルギーがいるので終わったら疲れます。

慣れてきたら本心本音、素の自分との距離が縮まるので、自分を縛っている制限からも解放され、自由度が増しで本当にらく、生き生きとした時間を過ごせるようになります。

今ここ

そしてその状態というのは「今ここ」で心を開いている状態なのですね。

自分のことも相手のことも信頼しているからこそ、素の自分が出せるのです。

 

本当は、グループワークの時間だけではなく、生活そのものがその状態で生きられたらとってもらくですね。

そしてそれが本当の意味で「生きている」と呼べる状態だと思います。

 

私の場合はグループワークを体験するずっと前、生死をさまよった際に同じような状態を体験しています。

一種の「覚醒体験」「宗教的体験」です。

真実の次元を一瞬垣間見る「一瞥体験」とも呼ばれています。

 

今ここで、目の前の人に対して素直に気持ちを言う。

これだけのことで良いんです。

しかしそれまでの人生それがどれほど難しかったか。

自分に対する信頼と相手に対する信頼が足らないと、「こんなことを言ったら嫌われるのでは?」と思い、ぶつからないように外面だけ良い顔をする。

その場の表面上の平和を保つために、本心ではうそをつく。

もちろんそれは相手に対する優しさでもあるけれども・・・・。

ずっとこんな生き方をしていて、それがあまりに当たり前だったので、本当はしんどかったのにそれすらもあまり自覚できずにいたのですね。

ですから、本心で人と交流できたことがほとんどなかったのです。

表面上はうまく行っているように見えて、自分の頭も心もだませるのですが、たましいの部分ではそれをちゃんと知っているのです。

実は一瞥体験の時に怖い思いもしていて、別のページにも書いていますが、「人見知りが罪」という内容のインスピレーションが来ました。

変性意識状態で色々な宗教的洞察、気づきが深まっているプロセスの中、それまでの生き方が「大罪」だったかのような感覚を感じたのです。

私自身はいわゆる「良い人」として過ごしてきたのに、実は誰ともほとんど、真の意味で心を通わせたという体験に乏しく、そのことが実は大きな罪なのだという気づきです。

それまでの人生でそんなこと考えてもみなかったことです。

他人の前で素直に泣いたり、怒ったり、本心からの優しさや感謝を伝えたり・・・・。

そういうことをやってもいいのに、やってはいけないものだと思い込んで、迷惑をかけないように、自分を抑えるのが当たり前だと思い込んでいたのです。

本心を伝えて拒否されることもあるでしょうが、多くの場合はむしろ喜ばれるというか、気持ちの深いところで分かり合えるようになるのに、それをやっていなかったという「罪」。

エゴの影響が強かったのですね。

生死に関わるような、そうでなくても今後どうやって生きて行ったらいいかわからないというような、その人にとって危機的状況になると、普段は奥に隠れているたましいの部分が表面に現れるのでしょう。

頭で考えてもわからないことが、たましいレベルではちゃんと答えを知っているのです。

覚醒体験をした人の多くが、その時は「今ここ」で生きられているのにまた元に戻ると聞きます。

グループワークも同じで、研修が終わって数日経つとやっぱりある程度は元に戻ってしまうのですね。

「今ここ」で生きていてあんなにらくで自由、生き生きしていたのにまた日常に戻るのです・・・。

それでも100パーセントすっかり戻り切ってしまうのではなく、やはりずいぶんと生きやすさは増しています。

自分を受け止めることができるようになっているので、その映し出しである人間関係も各段に良くなっていきます。

 

ちなみに個人セッションではグループワークでの接し方に近づけて対応させてもらってます。

限られたセッション時間ですので、研修ほど深くは行きませんが、「これがあのグループワークだったら私はどのような言葉をかけているかな」と自分を問い、関わらせていただいております。

 

生きづらさを抱えている状態というのは、どこかで自分にうそをついているからとも言えます。

本心ではこう感じているのに、それを受け止めきれていない、

頭の考えで覆いつくしてしまって、本心が自分でも感じられなくなっている。

 

人間というのは本来であれば本心本音で生きることができて初めて、その人自身の自己実現に繋がり、それが開花と呼ばれる状態でしょう。

自他ともに満ち足りて幸せな状態ですね。

誰でも可能なことなのです、本当は。

最後にこの本を紹介。


 

今日も読んでくださりありがとうございました。

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