以前講演を聴かせていただいた藤井美和先生の著書を読み返していました。
増補改訂版 たましいのケア
こちらは双子である藤井理恵先生、藤井美和先生がお書きになった本です。
理恵先生はチャプレン、美和先生は大学で死生学などの授業をお持ちです。
病む人のそばに寄り添い、どのような態度で接すればいいのかということが
体験を元に書かれてあり、大変学びになります。
詳しいことは直接本を読んでいただきたいのですが、
美和先生は若いころに大病を患った体験をお持ちで、
そのことについても書かれてあります。
読みながら自分の入院生活を思い出しておりました。
私の入院生活については「生死をさまよった体験」に書いてありますが
改めて、その時に感じていたことなどを振り返ってみました。
患者ー立つこともままならない。
産院から救急で大きな病院に運ばれ、次の日に手術。
人工呼吸器をつけられ、意識もなかったので最初の数日間は全く記憶がありません。
目が覚めた時は管だらけでトイレにさえも行けない状態。
導尿の管をつけられオムツ状態。
しかも、開腹手術をした後なので切ったところが痛いのですが、
そのことすら、気にならないというか、
疑問にすら思わない精神状態でした。
普通「なんの手術したん?」と疑問がわくと思うのですが、
そのような疑問すらわかない、思考能力が低下していた状態ともいえるでしょう。
最初に具合が悪くなったのが1月18日、入院が21日。
それまでもほとんど歩けず、21日から25日の夕方までは意識がないため寝たきり。
足の筋肉を使っていなかったので立つのにも苦労しました。
立ってもよろけますし、歩くのも支えがあってやっと。
すぐに息が切れ、いったんしゃがむともう立てないということもありました。
タオルを持つという行為も、そのタオルが重くて自由に動かせない。
話すにも顔の筋肉が動かしにくく、ろれつが回らない。
「退院しても動けるようになるまで何か月もかかるのでは?」と思いました。
意識が戻った次の日、お世話になった産院の女医さんが来てくださいました。
本当に良くしてくださったとの思いから
「先生、4人目もお願いします。」と言ってしまったのですが
次の日救急の先生から「子宮を摘出した」と伝えられました。
摘出した子宮と卵管の写真を見せられましたが
まだ目があまり見えていなくて、ぼやっとしかわかりませんでした。
「まあ、二人おるしね。」
という言葉が出て、その時は子宮を失った喪失よりも
すでに二人の子どもがいる、自分のいのちが助かったという与えられているもののありがたさを感じる気持ちを強く感じていました。
でも今になって、3回の尊い妊娠を体験した子宮を失ったことの重みがずしんと来ているような気がします。
おなかに赤ちゃんがいるというあの温かい気持ちをもう味わうことはできないんだと。
このことは夫にとっても大きな喪失です。
普段の自分とはかけ離れた姿。「患者」としての自分
身体の状態が悪く、生きるか死ぬかという過酷な状況にありました。
数日後意識が戻った際には「もう大丈夫。」だったにも関わらず、
熱が下がらない、腎臓の機能が低下しているから、もしかすると透析治療を追加するかもしれないということも言われ、一命は取り留めたものの家族の私に対する心配はしばらく続きました。
あまりに大変な状況だったので、さほど意識はしなかったものの
オムツ状態、導尿、これが続くとやっぱりみじめな気分になるというか。
当時28歳で幼稚園児二人の子育て真っ最中。
学生時代から英語を一生懸命やっていて、入った大学ではトップレベルのクラスに所属し、
1年の春からいきなり英語でプレゼンやったり、英語でレポート書いたり、
クラスでは当然英語だけで話すという環境。
時にはクラスメートと集まって徹夜でプレゼンの準備をすることも多々ありました。
課題が多かったので平日はまじめに勉強、
週末は友人とクラブに踊りに行って弾けるという学生生活をしばらく楽しみました。
その後プライベートでは色々困難があってそのためモチベーションが続かず、
留学の夢は断たれたものの、食らいついてやってきました。
結婚後もまじめに英語のトレーニングを続けてTOEICのスコアもアップ、
英語講師の仕事に対しても情熱を注いでいて、見た目は本当に「アクティブに活動している」ように外からは見えていたと思います。
当時は経済的に大変だったので特に英語に関してはスキルアップしてもっと働きたいという思いを抱えておりました。
そんな中思いがけず3人目を妊娠し、あれよあれよという間にお別れ。
あの子と過ごした妊娠期間はまるで夢の中の出来事のようでした。
入院するまでの自分に対するイメージとしては「まじめに英語を頑張ってきた人」というのが一番強かったでしょうか。
そんな自分のイメージが「オムツ」と「導尿」で一気に崩れ去るというか、
看護師さんに見られるのは平気だとしても
家族に見られるのが何とも言えない気持ちになりました。
今までそれなりにバリバリやってきた、しかもまだ28歳の若い娘が、妻が、となるとショックだっただろうなと思います。
オムツの方は目が覚めて2日くらいで取ってもらったのですが、
導尿の方は早く外してもらえないか尋ねたのですが、何日間か続けなければなりませんでした。
腎臓の機能が低下しているため、どれくらいの尿が出ているか正確に把握しておく必要があったのです。
摂取した水分も毎回自分でノートに記録し、看護師さんに報告していました。
導尿は外から見えるということで、家族にも見られたくないけど
親戚や友人にはもっと見られたくないという気持ちになります。
親戚がお見舞いに来てくれるという日にちょうど取ってもらえたので見られることはなく済みました。
診察の時に服を脱ぐこと
聴診器を当てるのに肌着一枚あってもいいように思うのですがどうなのでしょうか。
近所の掛かりつけの病院では服の上から聴診器を当ててくれます。
入院時は強心剤などの治療もあったとのことですし、
マイコプラズマ肺炎にもかかり呼吸も苦しかったので
正確に調べるためにも直接肌の上から当てることが必要だったのかと思いますが、
弱っている時に裸を見せるというのはさらにダメージが。
仕方がないとはわかっているのですが、せめて女の先生だったらという思いはあります。
ダメージを受けるといっても若い男の先生で好みのタイプだったら正直嬉しいような気もしますし、恥ずかしい気もします。
生死の危機を体験し、この期に及んで何を言っているんだと思われるでしょうが
弱っている時は普段思いもよらないような感情がわいてきたりするのです。
自分でも自覚しなかった感情を夫が察知し、
診察の際は「監視」するように見張っていたことを思い出します。
無意識に「ニコニコして嬉しそうにしてた」様子を夫はキャッチしていたのですね。
(普段からもその感覚を養ってもらいたいものですが)
感覚が鋭敏になっているので人の思いがダイレクトに伝わってくる
スピリチュアルケアのグループワークが深まると同じような感覚が戻ってきます。
入院していた時の方がより敏感で、また混乱状態にも陥りやすかったです。
医師の先生や看護師さん助産師さんには本当に良くしていただいて、
特に何を話すというわけでなくても
「目の前の患者さんに良くなってもらいたい」という思いがひしひしと伝わってくるのです。
この入院で本当にすごい力を持った助産師さんとの出会いがあり、私の原点にもなった体験をしましたが、
その方とは別に私が泣いていてもそのことについて触れることのできない若い看護師さん(助産師さんかな)もいました。
触れることができないというその態度からも彼女の優しさや、
どうしていいかわからないというもどかしさも伝わってきて
「何もできないという態度からも癒される」という体験をしました。
何もできないといっても、目の前の患者さんに関心がなくてどうでもいいから何もできない、しないという態度だったら
ただ機械のように動く看護師さんに過ぎず、癒されることはなかったでしょう。
「何もできない」という気持ちの奥には「この人のために何かしたい、役に立ちたい、でも一歩が踏み込めない」
このような優しさがあったからこそ、癒されたのだと思っています。
話を聴く側になって、この体験から・・・・
この体験は、今度は私が話を聴かせていただく立場として現場に赴いたときにしっかりと生きているように思います。
スピリチュアルケアにおいて話を聴く側は「何もせずにそばにいること」「not doing but being」ということを求められます。
何か役に立たなくては
どうにかして良いことを言ってあげなければ
この人の痛みを少しでも和らげてあげなくては
らくにしてあげなければ
など、「自分が何かをしないといけない」というような気持ちを抱きがちで、
ただ何もせずにそばに居ることができない、難しい
と感じる人も多いのです。
しかし、究極的には何をしても、何もしなくても
その人と一緒に居たいかどうか、
心が相手とともにあるかどうかが問われる。
その気持ちさえあれば、結局何を言っても何をしても、何もしなくても、感性の敏感になった患者さんには伝わることが多いのではないでしょうか。
患者として身をもって体験した出来事でした。
以上、読んでくださりありがとうございました。